社会力アップ講座

3 歴史的分野②近代〜現代

4、近代

●明治維新…日本の近代は明治維新から始まります。今日の日本の原点はやはり、明治維新と第二次世界大戦にあると言ってよいでしょう。実際、アジア世界で西欧列強の植民地化を免れたのみならず、「近代化」を達成して、西欧列強に並ぶ大国となったことは歴史的に見ても驚異です。もちろん、ヨーロッパも世界史的に見れば、長らく文明の辺境・後進地帯でした。それが「近代化」を達成したことで、十字軍も成し遂げられなかったイスラーム世界への勝利を収め、それまでアレクサンダー大王の東方遠征とタラス河畔の戦いぐらいしかなかった、東方世界への勝利を実現しました。やはり、世界史的にも日本史的にも「近代化」の秘密を探ることが最大のテーマの1つなのです。


【文明開化・富国強兵・殖産興業】

文明開化 天賦人権思想(「東洋のルソー」中江兆民)、福沢諭吉(『西洋事情』、『学問のすゝめ』、『文明論之概略』、慶応義塾)、中村正直(スマイルズ『西国立志編』、ミル『自由之理』)、明六社(森有礼・福沢諭吉・西周・加藤弘之・西村茂樹ら)~『明六雑誌』。
富国強兵 徴兵令(1872年)→秩禄処分・廃刀令(1876年)→「士族の商法」→西南戦争(1877年、西郷隆盛)。
殖産興業 お雇い外国人、工部省~鉄道建設・官営事業(長崎造船所など)、郵便制度(前島密)、官営模範工場(生糸~富岡製糸場など)、内務省~製糸・紡績業→第1回内国勧業博覧会、北海道開拓使→札幌農学校・屯田兵制度、新貨条例(円・銭・厘)→国立銀行条例(渋沢栄一)、政商~三井・三菱(岩崎弥太郎~海運)。


●日清戦争…近代日本は、良くも悪くも日清戦争と日露戦争という2つの戦争で「近代化」のステップを大きく進めたことは事実です。幕末の志士達の共通の危機認識であったアヘン戦争(1840~42年)から20数年後に明治維新(1868年)を迎え、さらに「近代化」を開始して20数年後に日清戦争(1894~95年)での勝利、さらに10年後に局地戦とはいえ日露戦争(1904~05年)の勝利に至ったわけですから、「近代化」の力は推して知るべしです。
実際、政治的には日清戦争でアジアの宗主国中国を倒してアジア・ナンバー・ワンとなり、日露戦争で欧米帝国主義列強の一員となりました。外交的には日清戦争の直前に治外法権の回復がなされ、日露戦争の後に関税自主権の完全回復がなされました。経済的には日清戦争を前後して、軽工業中心の第1次産業革命が起き、そこで得た賠償金で八幡製鉄所を作り、中国の鉄鋼石と筑豊炭田の石炭によって、重工業中心の第2次産業革命を推進していったのです。


【コラム】近代日本の軍事・安全保障の生命線
近代日本が辿った道は、軍事・安全保障面では「琉球→台湾→朝鮮半島→満州→中国大陸」というラインになっています。もっとも最初からこのような構想の下で動いていたというより、目前の国際情勢に対処していく中で、結果としてこのようなラインに沿った動きになったということが正確な所のようです。
琉球 日中両国に対する両属関係を断ち、琉球処分で日本領化。
台湾 台湾出兵に始まり、日清戦争で日本領に。
朝鮮半島 江華島事件で開国させて不平等条約を押し付け、日清戦争で清の宗主権を断ち切り、韓国併合で植民地化。
満州 日露戦争でロシア勢力を排除して利権を手に入れ、満州事変で満州国建国。
中国大陸 柳条湖事件で日中戦争勃発、アメリカの利権もからんで太平洋戦争に。


●日露戦争…近代日本の軍事・安全保障は「琉球→台湾→韓国→満州→中国大陸」という戦略図になっていました。日清戦争によって朝鮮半島から清の影響力を排除した日本は、満州に進出するロシアとの関係をどうするかという問題に直面します。日清戦争で勝利を収めた伊藤博文らはロシアと「満韓交換」を行おうとする日露協商論の立場でしたが、桂内閣はイギリスと同盟して実力で韓国での権益を守る対露強硬方針を取り(日英同盟論)、「光栄ある孤立」を保っていたイギリスに外交転換を促して、日露戦争に踏み切りました。極東での局地戦であったこと、ロシアが革命前で政情不安定な時期であったこと、最初から早期決着を目指していたことなどが幸いし、多大な犠牲を払いながら、見事勝利を収めます。アジアの一島国がヨーロッパ列強の一角を崩したのですから、帝国主義列強に次々と植民地化されていたアジア諸国に大きなインパクトを与えたことは間違いありません。


【日露戦争のインパクト】
「これは最近数百年問に於けるアジア民族の欧州人に対する最初の勝利であったのであります。此の日本の勝利は全アジアで影響を及ぼし、アジア全体の諸民族は皆有頂天になり、そして極めて大きな希望を抱くに至ったのであります。…今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。(孫文「大アジア主義」)
「私の子供の頃に日露戦争というものがあった。その頃のロシアは世界一の陸軍国だった。世界中は、ちっぽけな日本なんかひとたまりもなく叩き潰されると思っていた。アジア人は西洋人にはとてもかまわないと思っていたからだ。ところが戦争をしてみると、その日本が勝ったのだ。私は、自分達だって決意と努力しだいではやれない筈がないと思うようになった。そのことが今日に至るまで私の一生をインド独立に捧げることになったのだ。私にそういう決意をさせたのは日本なのだ。…日本のロシアに対する勝利がどれほどアジアの諸国民を喜ばせ、小躍りさせたかを我々は見た。」(ネルー『父が子に語る世界史物語』)


●第一次世界大戦…帝国主義間の覇権争いの中で、ドイツのパン=ゲルマン主義VSロシアのパン=スラブ主義、ドイツの3B政策(ベルリン・ビザンティウム・バグダード)VSイギリスの3C政策(カイロ・ケープタウン・カルカッタ)、三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)VS三国協商(イギリス・フランス・ロシア)といった対立軸が先鋭化し、ついに人類史上初めての世界大戦(1914~18年)が勃発します。「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島で、オーストリア帝位後継者が親露的なセルビア人に暗殺されたサライェヴォ事件が発端となり、戦争は長期化して国民経済・技術力・生産力を挙げての総力戦となり、航空機・毒ガス・戦車・潜水艦など新兵器も投入されました。やがて、ロシアの専制体制がこれに対応できず、史上初の社会主義革命であるロシア革命が起きる一方、アメリカ合衆国のウィルソン大統領はこれに対抗して14か条の講和原則を打ち出し、戦後はこれに基づいて、世界平和を目指す史上初の大規模な国際機構である国際連盟が設置されました。また、ウィルソンの打ち出した「平和主義」「民族自決」の与えた影響は大きく、1919年には三・一独立運動(韓国)、五・四運動(中国)、ガンジーの非暴力・不服従運動(インド)などが一斉に起こっています。


【大正デモクラシー(第1次護憲運動~男子普通選挙成立)】
戦前にも民主主義はありました。大正デモクラシーの時期は制限つきであるとはいえ、自由の風が吹き、それ以前とも以後とも違う様相を呈しているのです。
民本主義 吉野作造が提唱した大正デモクラシーの理念。国民主権の民主主義との違いは、天皇主権の大日本帝国憲法下で民主主義の長所を採用する所にあります。
天皇機関説 美濃部達吉が提唱した大正デモクラシーの理念。統治権の主体を法人としての国家に帰属させ、天皇は国家の最高機関として、憲法に従って統治権を行使するものとした。


【選挙権の変遷】
やはり、普通選挙の実施は大きな転換点となっています。近代民主主義の進展を考える上で、ポイントの1つになっていることが分かります。
公布年 公布時内閣 実施年 納税条件 性別年齢 人口比
1889年 黒田清隆内閣 1890年 直接国税15円以上 男25歳以上 1.1%
1900年 山県有朋内閣 1902年 直接国税10円以上 男25歳以上 2.2%
1919年 原敬内閣 1920年 直接国税3円以上 男25歳以上 5.5%
1925年 加藤高明内閣 1928年 制限なし
(男子普通選挙)
男25歳以上 20.8%
1945年 幣原喜重郎内閣 1946年 制限なし
(男女普通選挙)
男女20歳以上 50.4%


【超法規的な元老政治】
1900年に立憲政友会が結成され、第4次伊藤博文内閣が成立しますが、貴族院の反対に苦しめられて退陣し、1901年に第1次桂太郎内閣が成立します。これ以後、山県有朋の後継者で長州閥の桂太郎が率いる軍部・官僚・貴族院勢力と、伊藤博文の後を受けた西園寺公望を総裁とする立憲政友会とが政界を二分する勢力となりました。そして、これを機に明治の「元勲」達は第一線を退くも、非公式に天皇を補佐する「元老」として首相の任免権を握り、内閣の背後から影響力を行使していきます。そもそも「元老」なるものは大日本帝国憲法にも何ら規定されておらず、むしろ憲法どころか、明治維新政府そのものを創ったのは自分達だという強烈な自負を持った「超法規的存在」だったのです。
長州系元老 伊藤博文、山県有朋、井上馨、桂太郎。
薩摩系元老 黒田清隆、松方正義、西郷従道、大山巌。
公家系元老 西園寺公望。


【軍縮と恐慌】
1920年代は国際的には「軍縮」、国内的には「恐慌」の時代です。1930年代は「軍国主義の台頭」として位置づけられるでしょう。
戦後恐慌 1920年。大戦景気(船成金)→ヨーロッパ諸国の復興・アジア市場への復帰→綿糸・生糸暴落。
ワシントン会議 1921~22年。ワシントン体制→協調外交・幣原外交。四カ国条約(太平洋の平和に関する条約→日英同盟廃棄)、九カ国条約(中国の主権尊重・門戸開放・機会均等→山東省における旧ドイツ権益返還)、海軍軍縮条約(主力艦保有量の制限)。
震災恐慌 1923年。関東大震災→不況慢性化、流言による朝鮮人・中国人殺害。
金融恐慌 1927年。震災手形の処理→蔵相の失言から取付け騒ぎ→台湾銀行救済問題(経営破綻した総合商社鈴木商店に対する巨額の不良債権)→モラトリアム(支払猶予令)。
不戦条約 1928年。ケロッグ=ブリアン協定~国際紛争を解決する手段としての戦争放棄(日本国憲法第9条の原型)。
昭和恐慌 1930年。アメリカ・ウォール街の株価暴落(1929年、世界恐慌)→金輸出解禁(1930年、浜口雄幸内閣・井上準之助蔵相)→輸出減少、正貨の大量流出、倒産・失業者増大→重要産業統制法(1931年)→金輸出再禁止(犬養毅内閣・高橋是清蔵相)→管理通貨制度に移行。
農業恐慌 植民地米移入による米価低迷→昭和恐慌による各種農産物価格暴落、対米生糸輸出激減→豊作貧乏(1930年)→大凶作(1931年)→欠食児童・女子の身売り。
ロンドン海軍軍縮会議 1930年。補助艦保有量の制限→統帥権干犯問題(軍の最高指揮権である統帥権は天皇大権で、その発動には参謀総長・海軍軍令部長が直接参与した)。


【世界恐慌に対する4つの道】
政治面では2つの世界大戦がターニングポイントですが、経済面ではやはり世界恐慌がターニングポイントであると言えるでしょう。ここで古典派経済学も行き詰まり、ケインズ経済学が登場してくることになりました。「自由放任(レッセ=フェール)」に基づく「小さな政府」「夜警国家」から、「大きな政府」「行政国家」への転換も後々起こってくるわけです。この世界恐慌に対しては、「持てる国」と「持たざる国」、「資本主義」と「社会主義」で対処の違いが出ました。
イギリス
フランス
ブロック経済(本国と植民地との間で保護貿易政策)~ポンド・ブロック(スターリング・ブロック)、フラン・ブロック→日本が産業合理化と円安で自国植民地への輸出拡大をし、綿織物では世第1位になったのに対して、国ぐるみの投げ売り(ソーシャル=ダンピング)と非難。
ドイツ
イタリア日本
全体主義(一党独裁)~ナチズム(ドイツ)、ファシズム(イタリア)、軍国主義(日本)→新興財閥(日産、日窒)が軍と結びついて満州・朝鮮にも進出。
アメリカ ニューディール政策(修正資本主義)~財政支出による景気刺激策→最終的には第2次世界大戦が最大の有効需要創出。
ソ連 計画経済(一国社会主義)~5か年計画→世界経済の影響を受けずに発展。


【軍部台頭の原因】
軍部大臣現役武官制 1900年。第2次山県有朋内閣、陸・海軍大臣を現役将官から任用する制度→軍部の内閣への発言力を強める。
統帥権干犯問題 1930年。ロンドン条約調印は、内閣が天皇の統帥権を犯したことになり、違憲であると海軍軍令部が政府を攻撃→浜口首相狙撃。


●第2次世界大戦…1939年9月1日、ドイツがポーランド侵攻を開始し、9月3日にイギリス・フランスが直ちに宣戦布告して第2次世界大戦が始まります。ドイツはデンマーク・ノルウェー・オランダ・ベルギーに侵入し、さらにフランスに侵攻してパリを占領、第三共和政を崩壊させます。フランスの北半はドイツに占領され、南半はドイツに降伏したペタン率いるヴィシー政府が統治しますが、降伏を拒否したド=ゴールらはロンドンに亡命政府(自由フランス政府)を組織して、レジスタンス(対独抵抗運動)を呼びかけていきます。イギリスではチャーチルが首相となってドイツ軍の上陸を防ぎますが、ヨーロッパの過半はナチス=ドイツが支配するようになるのです。
日本は日中戦争の長期化で国力を消耗しており、状況打開のために南方進出を企てますが、アメリカはイギリス・中国・オランダと共に「ABCDライン」を形成してこれを牽制し、日米交渉が行き詰まった結果、1941年12月8日の真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争に踏み切ります。かくして、国内危機を他国への侵略で解決しようとした全体主義国家がそれぞれ別に始めた戦争が、1941年には世界戦争へと一体化され、数千万人に上る犠牲者をもたらす結果となるのです。


【日本の戦争目的】
日本が太平洋戦争に踏み切った理由としては、①資源の確保、②中国利権の確保、③国際的地位の確保、であったとされますが、敗戦後の日本はかつての敵国アメリカの軍事力を防衛力として活用し、戦争を二度と経験することなく、平和と安定の中で経済中心主義を取ることとなりました。そして、日本には資源がないがゆえに自国産にとらわれる必要がなく、世界中から良質の資源を買い求め、製品加工して輸出するという加工貿易型に活路を見出すのです。かくして世界に冠たる経済大国・技術大国となり、中国貿易でも現地一括生産・製品輸入型モデルを構築して多大な利益を上げるなど、気が付いてみたらかつての戦争目的は全て達成されている状態になっているのです。


【ミュンヘン会談の教訓】
1938年3月、ドイツはドイツ民族統合を名目にオーストリアを併合し、9月にはドイツ人が多く居住するチェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲を要求しました。イギリスのチェンバレン首相は譲歩と話し合いで解決を図る宥和政策を採ったため、9月末にミュンヘンでイギリス・フランス・ドイツ・イタリアの4国首脳会談が開かれ、チェコスロヴァキア代表を参加させないまま、ズデーテン地方のドイツへの割譲を認めてしまうのです。これはウィルソンの平和主義が如何に浸透し、厭戦気分がみなぎっていたかを示すものもありますが、ヒットラーからすれば「要求を満たさなければ戦争するぞ」と脅すだけで、戦争によってしか手に入れられないようなものを得ることができたわけですから、その後の要求がどんどんエスカレートしていったことは言うまでもありません。
戦後、このミュンヘン会談の教訓は国際政治学の定石となりました。キューバ危機が起きた時、アメリカの若き大統領ケネディの脳裏によぎったのはミュンヘン会談の教訓であったと言います。「平和を守るためには戦争も辞さない」との覚悟を示したからこそ、老練なソ連の書記長フルシチョフもキューバに建設途中であったミサイル基地を撤退せざるをえませんでした。ブッシュ大統領父が湾岸戦争に踏み切った時も1日祈って決断したと言いますが、やはりミュンヘン会談の教訓が念頭にあったと思われるのです。


【日本4分割論と朝鮮半島南北分断】
当初、日本は福島県を境に北部はソ連、南部はアメリカ、中国・四国九州地方はイギリス、四国は中国が分割統治し、東京は4か国共同統治されるはずでした。それがいつの間にか戦争責任のない韓国の南北分断となり、北はソ連をバックに朝鮮民主主義共和国、南はアメリカをバックに大韓民国として独立することになりました。敗戦国ドイツがドイツ民主共和国(東ドイツ)とドイツ連邦共和国(西ドイツ)に分断されたように、もしかしたら日本も北日本民主主義共和国、南日本連邦共和国になっていたかもしれないのです。


5、現代

●占領下の日本…日本はポツダム宣言に基づいて連合国に占領されることになりましたが、同じ敗戦国ドイツがアメリカ・イギリス・フランス・ソ連4か国によって分割占領され、直接軍政の下に置かれたのに対し、日本はアメリカ軍による事実上の単独占領で、マッカーサー元帥を最高司令官とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の指令・勧告に基づいて日本政府が政治を行う、間接統治の方法が採られました。ちなみに朝鮮半島北部・南樺太・千島列島などはソ連軍が、朝鮮半島南部及び奄美大島・琉球諸島を含む南西諸島と小笠原諸島はアメリカ軍が占領し、直接軍政をしいています。台湾は中国に返還され、日本の主権は4つの島と連合国の定める諸小島の範囲に限定されたのです。また、連合国による対日占領政策決定の最高機関としてワシントンに極東委員会が置かれ、東京には最高司令官の諮問機関である対日理事会が設けられましたが、アメリカ政府主導で占領政策が立案・実施されています。
当初の占領目標は、非軍事化・民主化を通じて日本社会を改造し、アメリカや東アジア地域にとって日本が再び脅威となるのを防ぐことに置かれたのですが、朝鮮戦争(1950~53年)で日本の戦略的価値を再認識したアメリカは、占領を終わらせて日本を西側陣営に早期に編入しようとし、1951年のサンフランシスコ平和条約で日本は独立国としての主権を回復すると同時に、日米安全保障条約が結ばれ、独立後も日本国内にアメリカ軍が「極東の平和と安全」のために駐留を続け、日本の防衛に「寄与」することとされます。サンフランシスコ平和条約によって、日本の賠償責任は著しく軽減しますが、朝鮮の独立、台湾・南樺太・千島列島などの放棄が定められ、沖縄・小笠原諸島はアメリカの施政権下に置かれます。また、日米安保条約に基づいて、日米行政協定(1952年)が締結され、日本は駐留軍に基地を提供し、駐留費用を分担することとなりました。


●日本国憲法…1945年10月、幣原喜重郎内閣はGHQに憲法改正を指示され、憲法問題調査委員会を設置して改正試案を作成しますが、天皇の統治権を認める保守的な内容であったため、GHQは極東委員会の活動が始まる前に自ら改正草案(マッカーサー草案)を作成します。なぜなら、極東委員会が活動を始めれば天皇制廃止が要求される可能性があり、GHQは天皇制廃止がもたらす収拾し難い混乱を避け、むしろ天皇制を占領支配に利用しようと考えていたからで、GHQは天皇を戦犯容疑者にも指定しませんでした。マッカーサー草案作成に当たっては、岩三郎らによる民間の憲法研究会が発表していた「憲法草案要綱」(主権在民原則、立憲君主制)なども参照され、政府はこのマッカーサー草案に手を加えたものを政府原案として発表しました。新憲法制定は手続き上、大日本帝国憲法を改正する形式を採り、改正案は衆議院と貴族院で修正可決された後、日本国憲法として制定されたのです。


【戦後処理に向けての国際会議】

大西洋憲章
1941年8月
ローズヴェルト
チャーチル
新国際機関の創設→連合国共同宣言(戦後処理の原則)→国際連合。
カイロ会談
1943年11月
ローズヴェルト
チャーチル
蒋介石
日本の無条件降伏、満州・台湾・澎湖諸島の中国返還、朝鮮の独立、日本の委任統治領である南洋諸島のはく奪。
テヘラン会談
1943年11~12月
ローズヴェルト
チャーチル
スターリン
連合国の北フランス上陸作戦(第二戦線・西部戦線形成)~ノルマンディー上陸作戦。
ヤルタ会談
1945年2月
ローズヴェルト
チャーチル
スターリン
ドイツの戦後処理、ソ連の対日参戦、ソ連への南樺太返還及び千島列島の譲渡、旅順・大連の自由港化。
ポツダム会談
1945年7月
トルーマン
チャーチル
スターリン
日本軍への無条件降伏勧告、日本の戦後処理方針。アメリカ・イギリス・中国の名前で発表し、後にソ連も参加。


【戦後の民主化政策】
人権指令 GHQ→幣原喜重郎内閣~憲法の自由主義化、婦人参政権、労働組合の結成奨励、自由主義的教育制度、経済機構の民主化。
教育改革 アメリカ教育使節団報告→教育基本法・学校教育法→公選による教育委員会設置(教育行政の地方分権化)。
財閥解体 財閥の資産凍結・解体→独占禁止法・過度経済力集中排除法。
労働三法 労働組合法(労働三権~団結権・団体交渉権・争議権)、労働関係調整法、労働基準法(8時間労働制)。
新選挙法 女性参政権→戦後初の総選挙(1946年4月)~39名の女性議員誕生→第1次吉田茂内閣。
神道指令 GHQは政府による神社・神道への支援・監督を禁止→国家神道解体(国家と神道の分離)。
人間宣言 昭和天皇~「現御神」としての天皇の神格を自ら否定。
公職追放 戦争犯罪人・陸海軍軍人・大政翼賛会の有力者ら。
経済安定 金融緊急措置令(インフレ対策)→傾斜生産方式(復興金融公庫~電力・海運などを含む基幹産業への資金供給)→ゼネラル・ストライキ中止(GHQの指示)→インフレ進行。
東京裁判 A級戦犯(「平和に対する罪」~東条英機ら)、B・C級戦犯(戦時中に捕虜・住民を虐待など、戦時国際法違反)。
農地改革 自作農創設特別措置法~農地委員会→不在地主の全貸付地・在村地主の貸付地の1町歩(北海道は4町歩)を超える分を小作人へ。
新民法・刑法 家中心の戸主制度廃止、男女同権の新しい家族制度を定める。不敬罪・姦通罪などが廃止。
経済復興 経済安定九原則→ドッジ=ライン(徹底した引き締め政策によるインフレ対策)→単一為替レート設定(1ドル=360円)→シャウプ勧告(直接税中心主義、累進課税制度)→インフレ収束、不況深刻化、中小企業倒産増大、失業者増加。


高度経済成長…ドッジ=ラインにより深刻な不況に陥っていた日本経済は朝鮮戦争による特需で息を吹き返し、1952年には国際通貨基金(IMF)・世界銀行に加盟し、1955~57年には「神武景気」と呼ばれる大型景気を迎えます。1956年の『経済白書』には「もはや戦後ではない」と書かれ、1955~73年の20年近くの間、日本経済は年平均10%を超える成長を続けて、1964年には国際通貨基金8条国(貿易支払いや資本移動に対する制限を禁止された国)に移行すると共に、経済協力開発機構(OECD、先進国クラブ)に加盟したことにより、先進国に仲間入りし、資本の自由化を義務付けられます。1968年には国民総生産(GNP)で資本主義諸国の中ではアメリカに次ぐ第2位に達しました。  この間、産業構造の高度化(第一次産業の比重が下がって、第二次・第三次産業の地位が高まる)、エネルギー革命(石炭から石油への転換)、民間企業の設備投資ブーム(「投資が投資を呼ぶ」)、日本的経営(終身雇用制、年功序列型賃金)の定着、消費革命(大量生産体制の確立→家電製品・自動車などの耐久消費財が爆発的に普及)、農村での「三ちゃん(じいちゃん・ばあちゃん・かあちゃん)農業」と都市部での核家族化の進行、中流意識の拡大、大学の大衆化などが進んでいきました。


  【高度経済成長と好景気】
神武景気 1955~57年。三種の神器(白黒テレビ・電気洗濯機・冷蔵庫)。
岩戸景気 1958~61年。国民所得倍増計画(池田勇人内閣、1960年)→「投資が投資を呼ぶ」。
オリンピック景気 1962~64年。東海道新幹線開通(1964年)、高速道路建設→東京オリンピック(1964年)。自家用車普及→「マイカー」時代→モータリゼーション(自動車が交通手段の主役に)。
いざなぎ景気 1965~70年。建設国債発行による公共投資拡大、重化学工業化による鉄鋼・造船・機械の国際競争力の高まり→輸出拡大。新三種の神器(「3C」~自家用自動車・カラーテレビ・クーラー)。


【激動する世界と日本】
ドル危機 アメリカの軍事支出膨張、西側諸国への莫大な援助、復興した先進国からの対米輸出急増→国際収支悪化、金準備減少。
ドル=ショック 1971年。ニクソン=ショック。金・ドル交換停止→スミソニアン協定(固定為替相場制維持)→変動為替相場制(1973年~)→IMF体制(金・ドル本位制~ドルを基軸通貨とする固定為替相場制)崩壊。
第1次石油危機 1973年。オイル=ショック。第4次中東戦争→OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は非友好国に対する石油輸出制限実施、OPEC(石油輸出機構)も原油価格を4倍に引き上げ→狂乱物価(+田中角栄内閣~「列島改造」政策)→スタグフレーション(インフレ+不況)。
第2次石油危機 1979年。イラン革命(アメリカの支援の下で近代化を進めてきたパーレビ王政が倒され、イスラーム復興を掲げるホメイニが権力掌握)→アラブの産油国は原油価格を3倍に引き上げ→世界同時不況(1980~83年)。
行財政改革 1983~87年。中曽根康弘内閣(新自由主義・新保守主義~レーガノミクス・サッチャリズム)。「戦後政治の総決算」→電電公社民営化(NTT)、専売公社民営化(JT)、国鉄民営化(JR)。
農産物輸入自由化 1980年代に日本の対米貿易黒字激増→自動車などの輸出自主規制、農産物の輸入自由化→牛肉・オレンジの輸入自由化(1988年)、米市場の部分開放(1993年)。
プラザ合意 1985年。レーガノミクス(減税政策、ドル高政策)→「双子の赤字」(貿易赤字、財政赤字)深刻化→G5(先進5か国財務相・中央銀行総裁会議)~ドル高是正のためドル売りの協調介入→急激な円高・ドル安→円高不況。
平成景気 1986~91年。バブル景気。円高不況対策→超低金利政策、内需主導型経済への転換→金余り現象→株式・土地への過剰な投機。


●バブル経済…1980年代には日本の対米黒字が激増したため、アメリカは自動車などの輸出自主規制を求め、農産物の輸入自由化を迫り、政府は牛肉・オレンジの輸入自由化(1991年)、米市場の部分開放(1993年)を決定しました。また、1985年の先進5か国財務相・中央銀行総裁会議(G5)での協調介入の合意(プラザ合意)以降は円高が加速し、輸出産業を中心に不況が一時深刻化しますが、その後は内需拡大に支えられた大型景気が訪れました。円高不況対策として超低金利政策が採られ、だぶついた資金が不動産市場や株式市場に流入し、地価や株価は投機的高騰を始め、円高の進行のため、欧米・アジア諸国に生産拠点を移すなど日本企業の海外進出が急展開し、国内産業の空洞化が進みます。やがて、1990年初めから株価が下落、1991年には地価が下落し始めて、バブル経済は崩壊し、「失われた10年」と言われる複合不況に突入します。


【冷戦終結と日本の動揺】
ペレストロイカ ソ連・ゴルバチョフ~市場原理導入、情報公開(グラスノスチ)→中距離核戦力(INF)全廃条約、アフガニスタン撤兵。
冷戦の終結 1989年。マルタ会談(ブッシュ、ゴルバチョフ)~「ヤルタからマルタへ」。
東欧革命 1989年。「ベルリンの壁」崩壊→東西ドイツ統一(1990年)。
ソ連邦解体 1991年。独立国家共同体(CIS、ロシアを中心とするゆるやかな連合)結成。
湾岸戦争 1991年。イラクのクウェート侵攻→アメリカ軍を主力とする多国籍軍が国連決議を背景に武力制裁→日本の国際貢献の必要性→PKO協力法(1992年、自衛隊の海外派遣)。
55年体制崩壊 1993年。細川護煕内閣(非自民8党派連立政権)~小選挙区比例代表並立制を導入する選挙制度改革実現。
平成不況 1991~2000年。バブル経済崩壊(1991年)→平成不況(不良債権→金融機関の経営破たん、貸し渋り→倒産、リストラ)→小泉内閣構造改革→戦後最長の好景気(2002~07年)。