社会力アップ講座

2 歴史的分野①古代〜近世

1、古代

●卑弥呼…弥生時代の倭国の中心であった「邪馬壹国」(後に「邪馬臺国」と表記され、その略字表記が「邪馬台国」です)の女王。239年に魏の国王に使いを送り、「親魏倭王」の称号と多数の銅鏡を贈られています。中国の史書によれば、倭国の地は伝統的に「呉」(江南地方)と関係が深かったとありますので、これは「外交転換」「外交革命」に他なりません。倭国宮廷には高度な漢文書処理能力と国際情報収集力があったようです。また、卑弥呼は鬼道(呪術)を事とし、男弟が補佐して国を治めたとありますので、ナンバー・ワンが祭事に携わる権威的存在で、ナンバー・ツーが政事に携わる実権者という二重構造はこの頃に原型ができたのかもしれません。さらに「天孫降臨」を命じたという天照大神といい、古代の女王卑弥呼とその後継者である宗女壹与といい、推古・皇極(斉明)・元明・元正・孝謙(称徳)天皇といった古代の女性天皇といい、女性がしばしばトップに立って重要な役割を果たしてきた日本には、どこかしら「女性国家」「母性国家」とでも言うべき性格があるようです。


【『魏志倭人伝』という書物は存在しない】
 正確には、三国時代を対象とした中国正史『三国志』(普通に良く知られている曹操・孫権・劉備・関羽・張飛・孔明らの物語は小説『三国志演義』です)の中に三国それぞれの歴史を記した「魏書(志)」「呉書(志)」「蜀書(志)」(「志」=「史」ということです)があり、その「魏書」の中の夷蛮伝の1つが「烏丸・鮮卑・東夷伝」であり、その末尾が倭人条となっていて、これを「魏志倭人伝」と呼び慣わしてきたわけです。


●ワカタケル大王…埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘と熊本県江田船山古墳出土の鉄刀銘に「ワカタケル」大王の名が確認されますので、5~6世紀には九州から関東に及ぶ王権が存在したようです。6世紀初めには筑紫国造磐井が新羅と結んで大規模の戦乱が起こり、6世紀半ばには朝鮮半島の倭地とされる伽耶諸国(任那)が百済・新羅の支配下に入って、古来の軍事氏族大伴氏が失脚し、大伴氏と並ぶ有力軍事氏族である物部氏と渡来人と結んで財政権を握った新興氏族蘇我氏とが対立するようになります。


【古代の制度】

大王 豪族達に氏や姓を与えて編成し、直轄領としての屯倉や直轄民としての名代・子代の部(集団)を各地に設けていきました。
血縁などによる豪族達の組織。氏上と呼ばれる首長がおり、氏の祖先神(氏神)を祭ることも行われていました。
政治的地位を示しており、葛城・平群・蘇我・阿部氏などには臣、大伴・物部・中臣・土師氏などには連が与えられました。
大臣大連 臣姓・連姓の中から任じられて、中央の政治中枢を担いました。重要事項は有力氏族代表の大夫が加わって合議しています。
伴造 大臣・大連の下で技術者集団を率いて、軍事・財政・祭祀・外交・文書行政などの職掌を分担しました。
国造 地方豪族に与えられた職掌で、その地方の支配権を保証する一方で、大王の元に子女を舎人・采女として出仕させています。
禊・祓 汚れをはらい、災いを免れるための儀式。
太占 鹿の骨などを焼いて吉凶を占う方法。
盟神探湯 裁判に際して熱湯に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽を判断する神判。


●聖徳太子(厩戸皇子)…日本古代史におけるスーパースターです。昔は長らく一万円札の「顔」でした。推古天皇の「摂政」(天皇代行)として、大臣蘇我馬子と共に「冠位十二階」や「憲法十七条」を定め、小野妹子を中国に派遣し、蘇我氏の氏寺たる「法興寺」(飛鳥寺、元興寺)に並ぶ「法隆寺」(斑鳩寺)や「四天王寺」を創建したり、大乗仏教の主要経典である『法華経』『維摩経』『勝曼経』の三つに注釈をした『三経義疏』を著したりして、仏教文化を興隆させたとされます。「聖徳太子信仰」には根強いものがあり、「律令体制の理念の提唱者」「日本仏教の原点」「和の文化の源流」「対等外交の展開」などの面で高く評価されています。
「一に曰く、和をもって貴しとなし、さからうことなきを宗とせよ。
 二に曰く、あつく三宝を敬え。三宝とは仏・法(仏教の教え)・僧なり。
 三に曰く、詔(天皇の命令)をうけたまわりては必ずつつしめ。」(『日本書紀』十七条憲法)


【律令体制の成立と変遷】
十七条憲法(604年) 律令体制の原点 聖徳太子~天皇中心の中央集権体制の理念提唱
大化の改新(645年) 律令体制の確立 中大兄皇子・中臣鎌足~乙巳の変(宮廷クーデター)、蘇我氏の排除、公地公民制・班田収授法
大宝律令(701年) 律令体制の完成 刑部親王・藤原不比等~二官八省、租庸調制、律(刑法)・令(行政法・民法)・格(追加法)・式(施行細則)
三世一身法(723年) 律令体制の動揺 墾田の三代の私有容認(輸租田)
墾田永年私財法(743年) 律令体制の崩壊 自墾地系荘園(初期荘園)→寄進地系荘園(不輸・不入権)


●天智天皇(中大兄皇子)…母である皇極天皇の時代に、中臣鎌足と共に時の権力者である蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼし、天皇中心の中央集権体制を実現していく上での障害を取り除きます。その後、母の弟である孝徳天皇が即位し、「改新の詔」に出てくる「公地公民制」(全ての土地と民を天皇のものとする)と「班田収授法」(口分田を支給して、税金を納めさせる)の二大原則に基づく諸改革「大化改新」を進めたとされます。皇極天皇が重祚(再び即位)した斉明天皇の時代には、百済の残党と倭国軍が唐・新羅連合軍と激突した白村江の戦いが起こり、北部九州を中心に防衛拠点として水城・大野城・基肄城や朝鮮式山城が築かれました。中大兄皇子は都を「近江大津宮」に移し、天智天皇として即位してから最初の戸籍である「庚午年籍」を作成したことでも知られますが、その死後に子供である大友皇子と弟である大海人皇子との間で皇位継承をめぐる古代最大の内乱「壬申の乱」が起こり、勝利した大海人皇子が天武天皇として即位します。


【飛鳥文化・白鳳文化・天平文化】
飛鳥文化 推古朝中国 南北朝文化の影響 飛鳥寺釈迦如来像、法隆寺金堂釈迦三尊像・百済観音像・夢殿救世観音像、中宮寺半跏思惟像、広隆寺半跏思惟像、法隆寺玉虫厨子、中宮寺天寿国繍帳
白鳳文化 天武・持統朝 初唐文化の影響 興福寺仏頭、薬師寺東塔、法隆寺金堂壁画、高松塚古墳
天平文化 聖武朝(平城京時代) 盛唐文化の影響 南都六宗、唐招提寺、東大寺正倉院宝庫、正倉院鳥毛立女屏風、正倉院螺鈿紫檀五弦琵琶、興福寺阿修羅像、『古事記』、『日本書紀』、『風土記』、『万葉集』、『懐風藻』


●聖武天皇…「鎮護国家」の思想に立ち、741年に国分寺建立の詔を出して、諸国に国分寺・国分尼寺を作らせ、743年に大仏造立の詔を出して、世界でも類を見ない東大寺の大仏を作らせ、その開眼供養では聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇、文武百官や渡来したインド僧・中国僧のほか、僧1万人が参列する盛儀となりました。


【奈良仏教・平安仏教・鎌倉仏教】
奈良仏教 国家仏教 鎮護国家、南都六宗(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗)、南都七大寺(東大寺・大安寺・興福寺・元興寺・薬師寺・法隆寺・西大寺)
平安仏教 貴族仏教 加持祈禱(三密加持~身密・口密・意密)、最澄(総合的、四種相承~天台法華・真言密教・禅・戒律)、空海(本質的、『三教指帰』『十住心論』~儒教・仏教・道教及び仏教各派の教相判釈)
鎌倉仏教 庶民仏教 末法思想(一密加持~公案・坐禅・称名念仏・題目)


【「日本仏教の父」と「日本仏教の母」】
伝教大師最澄が目指したものは天台法華を中心とした「総合仏教」でした。実際、最澄の後に最澄を超える人材が続き、円仁・円珍らが密教を本格的に導入したり、源信が『往生要集』で念仏信仰を称揚したり(観想念仏~二密加持)、一遍を除く鎌倉仏教の祖師達がこぞって比叡山から輩出されたりしていますので、「日本仏教の母」とも言うべき存在でしょう。
これに対して、弘法大師空海は「日本仏教の父」とも言うべき存在で、日本で儒教・道教・雑密を学んだ後に、唐で千人の先輩諸僧をさしおいて当時最先端の密教を伝授され、即身成仏の技法を示して見せたという伝説すら残っていますが、真言密教は空海に始まったのではなく、空海で頂点に達して、以後は形骸化したと言った方が正確かもしれません。


●桓武天皇…天智系光仁天皇と百済系渡来人の血を引く高野新笠との間に生まれ、平安京を作って、約400年にわたる平安時代を創始します。東北地方の蝦夷を制圧するため、征夷大将軍坂上田村麻呂を派遣し、鎮守府を多賀城(宮城県)から胆沢城(岩手県北上川中流域)に移しますが、「徳政論争」(藤原緒嗣VS菅野真道)を経て、「軍事」(蝦夷制圧)と「造作」(平安京造営)の二大事業を打ち切ります。さらに東北や九州の地域を除いて軍団と兵士を廃止し、「健児制」(郡司の子弟や有力農民の志願による国府警備や国内の治安維持)を採用しています。


【平安王朝は「夜警国家」の正反対の国家】
実は平安王朝は、アダム=スミス以来の「自由放任(レッセ=フェール)」の観点に立つ「夜警国家論」(国家の機能は、安全保障や治安維持など最小限のものに限られるべき)とは正反対の国家であり、正規軍を廃止し、対外戦争をしないどころか、主要外交まで中止(菅原道真の建議により遣唐使廃止)して、治安維持すらままならない状況でした。政権中枢のすぐそばにいたはずの紫式部による大河小説『源氏物語』においても、政治や経済の話はほぼ出てきませんので、当時の貴族達の関心事は「恋愛」と「和歌」にあったのではないかと思われるほどです。


【弘仁貞観文化・国風文化・浄土教文化】
弘仁・貞観文化 最澄(天台宗、比叡山延暦寺)、空海(真言宗、高野山金剛峰寺・東寺)、密教(即身成仏、曼荼羅)、室生寺金堂、三筆(嵯峨天皇・空海・橘逸勢)
国風文化 遣唐使廃止(894年、菅原道真の建議)、かな文字、『古今和歌集』(紀貫之ら)、『土佐日記』(紀貫之)、『竹取物語』、『伊勢物語』、『源氏物語』(紫式部)、『枕草子』(清少納言)、三蹟(和様の確立)、寝殿造
浄土教文化 末法思想、『往生要集』(源信~観想念仏)、平等院鳳凰堂、定朝(寄木造)、来迎図


●藤原道長…藤原不比等の子を祖とする藤原四家のうち、長男武智麻呂の南家は仲麻呂(恵美押勝)というエースが登場するも「恵美押勝の乱」で没落し、三男宇合の式家は「藤原広嗣の乱」や「薬子の変」で没落する中、次男房前の北家から冬嗣が出て、嵯峨天皇の厚い信任を得て蔵人頭(薬子の変で設けられた令外官で、天皇の秘書官長)に任ぜられます。その後、冬嗣の子の藤原良房が「承和の変」で北家の優位を確立する一方、皇族以外で初めて「摂政」となり、「応天門の変」で伴・紀両氏を没落させています。良房の後を継いだ基経は最初の「関白」となり、「阿衡の紛議」でその政治的地位を確立します。さらに基経の後に摂政・関白を務めた忠平が「安和の変」で藤原北家の勢力を不動のものとし、「摂関政治」が確立します。この「摂関政治」の頂点に立つのが、4人の娘を中宮(皇后)や皇太子妃とし、3代の天皇の「外戚」(天皇の母方の親戚)となった道長です。道長は30年にわたって朝廷で権勢をふるい、「此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることも無しと思へば」(『小右記』)という歌を詠んだことでも知られます。紫式部も道長の娘中宮彰子のサロンに属していました。道長の子頼通も3天皇の50年にわたって摂政・関白を務め、摂関家の勢力は安定していました。こうした藤原北家の権力の源泉は、血縁的には「外戚」、政治的には「摂政・関白」、経済的には「寄進地系荘園」にあったと言えるでしょう。


【「ナンバー・ツー構造」と「象徴天皇制」】
平安時代にも天皇に実権が乏しく、藤原氏が摂政・関白を独占して権力を握っていったように、鎌倉時代でも将軍がいながら、北条氏の執権が実権を握っていきました。日本は歴史的に見て、典型的な「ナンバー・ツー構造」があるようです。「ナンバー・ワン」は象徴的存在に祭り上げられ、実権は「ナンバー・ツー」が握っていくのです。しかもそれがどんどん「下位化」していくことに特徴があります(「天皇→将軍」「将軍→執権」)。今の日本は「象徴天皇制」ですが、第二次世界大戦以後、日本国憲法施行以後に始まることではなくて、「戦前から元々、象徴天皇制だった」と言われるのも、こういった歴史的経緯があるからでしょう。

●白河上皇…時の摂政・関白を外戚に持たない後三条天皇が「延久の荘園整理令」(1069年)を出し、「記録荘園券契所」を設け、統一された基準として「宣旨升」を用いる荘園整理を行なって、「荘園公領制」を成立させます。これによって摂関家の経済基盤は打撃を受け、さらに後三条天皇の子白河天皇が「上皇」となって「院庁」を開き、摂政・関白に代わって、上皇が天皇を後見しながら政治の実権を握る「院政」の道を開きます。上皇は思いのままにならないものは「賀茂川の水、サイコロの目、僧兵」だけだと嘆くほど権力を集中させ、院の御所に「北面の武士」を組織したり、源平の武士を側近にするなどしたため、ここから武士が台頭することとなります。院政では、院庁から下される文書「院庁文」や上皇の命令を伝える「院宣」が次第に効力を持つようになりました。


【武士の台頭】
承平・天慶の乱(東国、瀬戸内海) 平将門VS平貞盛・藤原秀郷
藤原純友VS源経基
地方武士の実力認知→侍奉仕、滝口の武士(宮中警備)
平忠常の乱(東国) 平忠常VS源頼信 源氏東国進出のきっかけ
前九年合戦(東北) 陸奥の豪族安倍氏VS源頼義・義家 源氏と東国武士団との主従関係→武家の棟梁
後三年合戦(東北) 藤原清衡+源義家 奥州藤原氏の成立
保元の乱(京都) 後白河天皇VS崇徳上皇
藤原忠道VS藤原頼長
平清盛VS平忠正
源義朝VS源為義
皇位継承順位破壊→700年に及ぶ幕府政治の遠因
崇徳上皇配流→怨霊化
源氏の倫理的破綻
平治の乱(京都) 藤原通憲(信西)・平氏VS藤原信頼・源氏 平氏の源氏に対する優位確立→源頼朝の伊豆配流


2、中世

●平清盛…桓武平氏のうちで伊勢・伊賀を基盤とする伊勢平氏の出身で、院近臣(院庁の職員である院司として上皇に仕えた近臣)として重用された父忠盛の後を継ぎ、保元・平治の乱を通じて遺族社会の内部の争いも武士の実力で解決することを明らかにして、「武家の棟梁」としての地位と権力を高めました。その後、武士として初めて「太政大臣」になり、娘徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮に入れ、その子の安徳天皇が即位すると外戚となり、「平家にあらずんば人にあらず」(『平家物語』)と言う者まで出てきた全盛期には、日本全国の約半分に上る知行国や500余りの荘園を経済基盤とし、摂関家に似た権力構造を持つ平氏政権を成立させています。清盛は経済テクノクラートとしては抜きん出た才覚を持っており、「本朝(皇朝)十二銭」廃絶後の貨幣経済の浸透を見て取ると、貨幣そのものの輸入を考え、宋銭を大量入手すべく、大輪田泊(神戸港)を修築して日宋貿易を推進します。この結果、中国では深刻な銅不足に陥り、歴史上初めての「紙幣」発行に追い込まれるほどでした。

【日本史上注目すべきテクノクラートは嫌われ者】

平清盛 日宋貿易推進→宋銭輸入。「驕る平氏は久しからず」。
足利義満 朝貢貿易でありながら、多大な利益を生む日明貿易推進(勘合貿易、滞在費・運搬費は全て明側負担)→明銭輸入。
田沼意次 重農主義の江戸歴代政権にあって、重商主義を推進。発展する商工業や町人資本を活用しました。


●源頼朝…源義朝の子で、平治の乱後に平清盛によって伊豆に配流されていましたが、後白河法皇の皇子以仁王による平氏打倒の令旨を受け、信濃の木曽谷にいた源義仲らと共に挙兵します(治承・寿永の乱)。その後、後白河法皇から諸国に「守護」を、荘園・公領に「地頭」を置く権限を与えられ、弟の源範頼・義経らに命じて、一の谷(摂津)・屋島(讃岐)・壇の浦(長門)の合戦で平氏を滅亡させると、奥州藤原氏(清衡・基衡・秀衡・泰衡)をも滅ぼして「征夷大将軍」に任ぜられ、名実共に「鎌倉幕府」を開いて、武家政権を定着させます。


【鎌倉時代の封建制度】
将軍 御恩~本領安堵(先祖伝来の所領支配の保障)・新恩給与(新たな所領を与える)。
御家人 奉公~戦時:軍役、平時:京都大番役(天皇・院の御所警護)・鎌倉番役(幕府警護)。
守護 原則として各国に1人。任務は大犯三カ条(京都大番役の催促、謀反人・殺害人の逮捕)など
地頭 任地は荘園・公領。任務は年貢徴収、土地管理、治安維持など。
惣領制 惣領(宗家・本家の首長)を中心とした一族の血縁的統制。分割相続→単独相続。
武家のならい 流鏑馬、笠懸、犬追物、巻狩など。兵の道、弓馬の道→武士道の起源。


【封建制度の比較】
ヨーロッパの封建制度 契約に基づきます。内容に矛盾がなければ、複数の主従関係を結ぶことが可能でした。
中国の封建制度(周王朝) 血縁関係に基づきます。一族・功臣を諸王に配し、本家と分家の関係にありました。
日本の封建制度(中世) 血縁的結合→地縁的結合→理念的結合(「一所懸命」から「一生懸命」)。


【執権政治から得宗専制政治へ】
第1代 北条時政 頼朝の妻北条政子の父~比企氏の乱(比企能員滅亡)、第2代将軍頼家暗殺。
第2代 北条義時 和田合戦(和田義盛滅亡)→執権+侍所別当・政所別当→第3代将軍源実朝暗殺→承久の乱(1221年、後鳥羽上皇~西面の武士)→武家政権の確立。
第3代 北条泰時 連署・評定衆設置、摂家将軍(藤原将軍)、御成敗式目(貞永式目、最初の体系的武家法、先例・道理→新補地頭による紛争解決の基準・集団指導体制の共通理念)制定、北条家嫡流の家令→得宗(北条氏の嫡流の当主)・内管領(得宗の家臣御内人の代表)のルーツ
第5代 北条時頼 引付衆設置、宝治合戦(三浦泰村一族滅亡)、皇族(親王)将軍
第8代 北条時宗 元寇(蒙古襲来):文永の役→異国警固番役、防塁(石塁)→弘安の役→鎮西探題
第9代 北条貞時 霜月騒動(内管領平頼綱VS有力御家人安達泰盛)→得宗専制政治、永仁の徳政令(1297年)、両統迭立(後深草上皇系持明院統⇔亀山天皇系大覚寺統)
第14代 北条高時 両統迭立に対する大覚寺統後醍醐天皇の不満、得宗専制政治に対する御家人の不満→正中の変、元弘の変(討幕計画・挙兵失敗)→楠正成(悪党などの反幕勢力結集)・足利高氏(尊氏、六波羅探題攻略)・新田義貞(鎌倉幕府滅亡)


【源平合戦の最終勝者は平氏?】
『平家物語』の冒頭文に見られるように、平氏の滅亡には「滅びの美学」とも言うべき美しさがありますが、鎌倉幕府の源氏将軍が暗殺に次ぐ暗殺で血筋が絶えたように、源氏の滅亡には美しさがないとされます。ちなみに源氏将軍に代わって実権を握った北条氏は平氏の流れですので、源平合戦の最終勝者は平氏と言えるかもしれません。


【鎌倉・室町時代の経済】
鎌倉時代 室町時代
二毛作(米・麦、畿内・西日本)
大唐米(多収穫米)輸入
牛馬耕、鉄製農具
刈敷(刈り草を田に敷く)、草木灰
二毛作(米・麦、関東)、三毛作(米・麦・そば、畿内)
商品作物の栽培(苧・桑・楮・漆・藍・茶など)、地方特産品(高級絹織物、刀、酒造業など)
定期市~三斎市(月3度の市)
見世棚~常設の小売店
座~同業者団体、神人(大寺社所属)、供御人(天皇家所属)
遠隔地取引~問丸(運送業)、為替
貨幣経済発展~宋銭、借上(高利貸)、荘園の一部で年貢の銭納
定期市~六斎市(月6度の市)
行商人~連雀商人(連雀で商品を背負う)、振売(棒手売、天秤棒で担ぐ)、大原女(炭・薪)、桂女(鮎)
遠隔地取引~問屋、馬借・車借(運送業)、為替
貨幣経済発展~明銭、撰銭(良質貨幣を選ぶ)、土倉(高利貸)
地頭請(一定の年貢を地頭に請け負わせる)
下地中分(相当部分を地頭に分け与える)
守護請→守護大名・守護領国制VS国人一揆(有力地方武士)
地下請(村請・百姓請、年貢を惣村で請け負う)


【阿仏尼の鎌倉旅行と李氏朝鮮使節の驚き】
鎌倉時代の『十六夜日記』の作者として知られる阿仏尼は、60歳を前にして所領問題解決のために、京都から鎌倉へと向かいました。これは実に大変なことで、女性が遠距離旅行するには、治安の問題、交通上の整備、大量の食糧を持参できないため貨幣経済の浸透などが不可欠とされます。これは室町時代に来日した李氏朝鮮の使節も驚いたことで、乞食が「食を乞う」のではなく、「銭を乞う」のを見て、衝撃を受けています。当時の日本では、銭さえあれば生活ができ、どこへでも旅行ができたわけです。


【鎌倉新仏教】
他力系 浄土宗 法然 『選択本願念仏集』 専修念仏(南無阿弥陀仏)
浄土真宗(一向宗) 親鸞 『教行信証』『歎異抄』(唯円) 悪人正機説
時宗 一遍 『一遍上人語録』 踊念仏
自力系 臨済宗 栄西 『興禅護国論』『喫茶養生記』 公案問答(超論理)、南宋→蘭渓道隆・無学祖元
曹洞宗 道元 『正法眼蔵』 只管打坐(非論理、ひたすら坐禅)
共力系 日蓮宗 日蓮 『立正安国論』 題目(南無妙法蓮華経)


【鎌倉文化・室町文化】
鎌倉文化 『新古今和歌集』(藤原定家、西行)、『方丈記』(鴨長明)、『徒然草』(吉田兼好)、『平家物語』(軍記物語)、『愚管抄』(慈円、道理)、金沢文庫(金沢実時)、東大寺南大門(大仏様)、円覚寺舎利殿(禅宗様)、仏師~運慶・快慶、似絵(個人の肖像画)、頂相(師僧の肖像画)
室町文化 能、狂言、茶の湯、生花~代表的伝統文化の多くが形成。
御伽草子、盆踊り(風流+念仏踊り)、薩南学派(朱子学、桂庵玄樹)、足利学校(関東管領上杉憲実、「坂東の大学」)、『庭訓往来』(教科書)


●足利尊氏(高氏)…足利高氏は鎌倉幕府の有力御家人でしたが、幕府に背いて六波羅探題を攻め落とし、後醍醐天皇の名の一字を与えられて「尊氏」を名乗ります。後醍醐天皇は天皇政治の最盛期と言われた醍醐・村上天皇の親政を理想としますが、武家社会の慣習を無視したため、多くの武士の不満と抵抗を引き起こしました。幕府の再建を目指していた尊氏は、中先代の乱(北条高時の子時行が鎌倉占領)を機に建武新政府に反旗を翻し、持明院統の光明天皇を立てて、当面の政治方針を明らかにした建武式目を発表し、新たに征夷大将軍に任ぜられて、武家政権(室町幕府)を成立させます。かくして後醍醐天皇は吉野の山中に逃れ、ここから約60年にわたる南北朝の動乱が始まるのです。


【7代→10代かけた天下取り】
足利氏は源義家の流れですが、「我、七代の子孫に生まれ変わりて、天下を獲るべし」という義家の「置文」(遺言状)が代々伝えられ、義家の七代後の子孫である家時は置文通りに天下が取れなかった自分を嘆き、八幡大菩薩にわが命を縮めるかわりに、これより三代の後に今度こそ望みを叶えてくれと置文を残して、切腹して果てました。その三代目が足利高氏(後に尊氏)だったのです。


【鎌倉時代は「地頭の時代」、室町時代は「守護の時代」】
鎌倉時代は幕府の力が強く、各地で地頭が所領争いをしていて、幕府もこれを裁定しなければなりませんでしたので、「地頭の時代」と言えそうです。室町時代は逆に幕府の力が弱く、守護の力が強大化して守護大名が誕生し、その一部が戦国大名に転化していきますから、「守護の時代」と言えそうです。


【鎌倉幕府・建武新政府・室町幕府】
鎌倉幕府 建武新政府 室町幕府
征夷大将軍 天皇 征夷大将軍
執権(北条氏)、連署(執権補佐)、評定衆(政務)、引付衆(訴訟) 幕府・院政・摂政・関白否定→天皇への権限集中~綸旨(天皇の命令文書) 管領(三管領~細川・斯波・畠山~足利一門)、評定衆、引付
侍所(軍事、初代別当和田義盛)、公文所→政所(政務、初代別当大江広元)、問注所(訴訟、初代執事三善康信) 記録所(政務)、恩賞方(恩賞事務)、雑訴決断所(訴訟)武者所(警備) 侍所(所司~四職~赤松・一色・山名・京極)、政所(執事)、問注所
京都守護→承久の乱→六波羅探題 鎌倉将軍府 鎌倉府(関東府)、鎌倉公方(関東公方、足利尊氏の子基氏の子孫)、関東管領(上杉氏の世襲)
奥州総奉行 陸奥将軍府 奥州探題・羽州探題
鎮西奉行→元寇→鎮西探題 九州探題
守護~大犯三カ条、大田文(図田帳)作成、地頭(本補地頭→承久の乱→新補地頭~新補率法) 国司・守護 守護(→守護代)~半済令(軍費調達のために年貢の半分を徴発する権限)、刈田狼藉(稲を一方的に刈り取る)取締権、使節遵行権(幕府の判決を強制執行する権限)、地頭


【惣村と一揆】
惣(惣村) 農民達が自ら作り出した自立的・自治的な村。神社の祭礼を行った宮座が結合の中心→共同農作業、自衛(地下検断・自検断)、入会地(山・野原などの共同利用地)の確保、灌漑用水の管理など。惣村→惣荘・惣郷。
寄合 村民の会議~おとな(長・乙名)、沙汰人→惣百姓。
惣掟 村法。村民自らが守るべき規約。
地下請 村請・百姓請。年貢などを惣村がひとまとめに請け負う。
一揆 協力して1つの目的を達成しようとする際に、神仏に誓約して一致団結した状態(起請文→一味神水→一味同心)を作り出し、結ばれた集団。国人一揆、土一揆など。
国人一揆 有力な地方武士(国人)が自主的に相互間の紛争を解決したり、台頭してきた農民勢力を支配するために契約(一揆契状)を結んで結成した地域的な一揆。
土一揆(徳政一揆) 強い連帯意識で結ばれた惣村の農民が、不法を働く荘官の免職や年貢の減免などを求めて結んだ一揆→強訴、逃散。
正長の徳政一揆(土一揆) 1428年。「日本開白以来、土民蜂起是れ初めなり」。6代将軍足利義教の「代始の徳政」要求→各地で債務破棄・売却地払い戻し(私徳政)展開。
嘉吉の徳政一揆 1441年。7代将軍足利義勝の「代始の徳政」要求→徳政令
山城の国一揆 1485年。畠山政長・義就両軍を国外退去(下剋)→8年間の自治(国衆・国掟・月行事)。
加賀の一向一揆 1488年。浄土真宗(蓮如~御文・講)→守護富樫政親打倒、1世紀に及ぶ自治。
分一徳政令 債権額・債務額の10分の1ないし5分の1の手数料(分一銭)を幕府に納入することを条件に、債券保護または債務破棄を認めた徳政令。


【戦国大名の最大の悩みの種は一揆対策】
応仁の乱以後、戦国時代に突入し、各地で戦国大名達が群雄割拠して覇を争いますが、彼らが最も頭を悩ませたのが「一揆」でした。中世において農村自治が進み、惣が誕生して年貢を共同責任で請け負うようになりましたが、この結束力はひとたび反乱となると侮れない力を発揮することとなったのです。後に秀吉が刀狩を行って、兵農分離を進めるのも、一揆の力を恐れていたからです。また、一揆は元々宗教的結合を背景としていますが、これが信仰共同体となった時、最大の力を発揮するのです。一向一揆はその最たる例で、宗教一揆の恐ろしさを熟知した信長はこれに真正面から取り組み、後の江戸幕府もキリスト教一揆たる島原・天草の乱を経験するに至って、鎖国と禁教令を徹底することになります。


【南北朝文化・北山文化・東山文化】
南北朝文化 『増鏡』(歴史物語、公家の立場)、『神皇正統記』(北畠親房、南朝の立場)、『太平記』(軍記物語)、『菟玖波集』(連歌、二条良基)
北山文化 足利義満(3代将軍)、鹿苑寺金閣(寝殿造+禅宗様)、五山・十刹の制(南禅寺+京都五山・鎌倉五山+十刹)、五山文学(絶海中津・義堂周信)、水墨画(明兆・如拙・周文)、能(猿楽・田楽→観阿弥・世阿弥、『風姿花伝(花伝書)』)
東山文化 足利義政(8代将軍)、同朋衆(芸能に秀でた側近)、慈照寺銀閣(書院造)、枯山水、水墨画(雪舟)、大和絵(土佐派)+水墨画→狩野派、茶道(侘茶~村田珠光)、花道、『新撰菟玖波集』(正風連歌、宗祇)、唯一神道(吉田神道、吉田兼倶)


●織田信長…日本人に好まれる時代は戦国時代と幕末・維新期の2つですが、「天下布武」を掲げてその戦国時代を収束させたのが、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3代です。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」(信長)、「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」(秀吉)、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」(家康)と言われるように、3人の個性はかなり違いますね。信長は長篠合戦で戦国最強と言われた武田軍を破り、戦術を一変させました。それまでは「やあやあ我こそは…」と名乗りを上げて、一騎打ちをしていくのが戦場の作法でしたが、3000丁の鉄砲を導入し、3列に並んだ鉄砲隊が一斉射撃しては入れ替わっていくので、特別な武勇は必要なく、足軽達を軍事力として最大活用する道を開いたのです。さらに白河上皇も手を焼いた僧兵の拠点比叡山延暦寺に焼き討ちをかけ、100年に及ぶ自治を行っていた一向一揆も屈服させて、既存勢力をなぎ倒していったのみならず、安土の城下町に楽市令を出して、商工業者に自由な営業活動を認めるなど、新しい都市政策を打ち出していきました。

「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり。」(今川義元を破った桶狭間の戦いに出陣する前、信長が舞った幸若舞「敦盛」の一節)
「敵は本能寺にあり。」(明智光秀の謀反の第一声)




【戦国大名の分国支配】
戦国大名 貫高制(銭に換算した収入額→軍役)、寄親・寄子制(多数の地侍を組織化)、家法・分国法、喧嘩両成敗法、指出検地(土地面積・収入額の自己申告)、城下町。
北条早雲 『早雲殿廿一箇条』、堀越公方滅亡→伊豆・相模進出→北条氏綱・氏康~関東の大半を支配。
今川義元 『今川仮名目録』~守護不入権否定。
伊達稙宗 前例のない陸奥守護職に任命、『塵芥集』。
上杉謙信 越後の守護上杉氏の守護代長尾景虎→関東管領上杉氏を継いで上杉謙信に→川中島の戦い(VS武田信玄)。
武田信玄 『甲州法度之次第』、信玄堤。
毛利元就 守護大名大内氏→重臣陶晴賢→安芸国人毛利元就VS尼子氏。


【都市の発展と町衆】
城下町 小田原(北条氏)、府中(今川氏、静岡市)、春日山(上杉氏、上越市)、山口(大内氏)、豊後府内(大友氏、大分市)、鹿児島(島津氏)
門前町 宇治・山田(伊勢神宮、伊勢市)、長野(信濃の善光寺)
寺内町 石山(摂津、大坂)、金沢(加賀)、富田林(河内)、今井(大和)
港町 堺、博多、坊津、尾道、小浜、敦賀、大津、桑名、大湊、品川
自治都市 堺(36人の会合衆)、博多(12人の年行事)、京都(町~月行事、町法、町衆)


●豊臣秀吉…織田信長が明智光秀による本能寺の変で敗死した後、秀吉は山崎の合戦で明智光秀を討ち、賤ヶ岳の戦いで信長の重臣柴田勝家を破って、信長の後継者としての位置を確立しました。その後、大坂城を築き、関白となり、総無事令(喧嘩両成敗法の全国化)を出して、九州の島津義久を征討し、小田原の北条氏政を滅ぼし(小田原攻め)、伊達政宗ら東北の諸大名を服属させて、全国統一を完成させるのです。さらに聚楽第に後陽成天皇を迎え、諸大名に天皇と秀吉への忠誠を誓わせた上で、検地・刀狩などの諸政策を実行し、朝鮮侵略で国内外に大変な被害をもたらしました。


【豊臣秀吉の政策】
総無事令 関白になった秀吉が天皇から日本全国の支配権を委ねられたと称して、全国の戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を秀吉の裁定に任せることを強制。
太閤検地 京枡、石高制(生産力を米の量で換算)、一地一作人→荘園制終焉。
刀狩令 兵農分離。
人掃令 身分統制令→諸身分の確定。
バテレン(宣教師)追放令 キリシタン大名大村純忠が長崎をイエズス会の教会に寄付→宣教師の国外追放を命令→キリシタン大名高山右近領地没収、サン=フェリペ号事件(スペインが領土拡張に宣教師を利用しているとの証言)による長崎26聖人殉教。
海賊取締令 倭寇などの海賊行為禁止、海上支配強化、南方貿易奨励→貿易活動と一体化して布教が行われていたキリスト教の取締りは不徹底に。
朝鮮侵略 文禄の役→李舜臣率いる朝鮮水軍の活躍→慶長の役。
五奉行 腹心の家臣(石田三成ら)→政務分掌。
五大老 有力大名(徳川家康ら)→重要政務を合議。


【豊臣秀吉と伊藤博文の共通点】
伊藤博文は「今太閤」と呼ばれ、低い身分から出発して天下を取ったという点で豊臣秀吉とダブる点がありますが、彼らはいずれも朝鮮半島侵略を進めており、彼らと対決した人物が韓国最大の英雄になっているという点でも共通しています。それが秀吉の朝鮮侵略軍を破った朝鮮水軍の李舜臣将軍と、韓国統監府初代統監として韓国併合を着々と進めていた伊藤博文を暗殺した安重根義士です。


【桃山文化・南蛮文化】
桃山文化 城郭建築(天守閣、本丸、郭)~安土城・大坂城・伏見城・姫路城(白鷺城)、障壁画(濃絵~金箔地に青・緑を彩色)~狩野永徳(洛中洛外図屏風・唐獅子図屏風)・狩野山楽(松鷹図)、水墨画~海北友松(山水図屏風)・長谷川等伯(松林図屏風)、茶道~千利休(秀吉→北野大茶湯)、歌舞伎~阿国歌舞伎(出雲阿国)→女歌舞伎(→若衆歌舞伎→野郎歌舞伎)、人形浄瑠璃(高三隆達~隆達節)
南蛮文化 南蛮貿易~鉄砲(種子島)・火薬・中国産生糸、イエズス会~フランシスコ=ザビエル・ヴァリニャーニ、キリシタン大名~大友義鎮(宗麟)・有馬晴信・大村純忠→天正遣欧使節、南蛮屏風、キリシタン版・天草版


【桃山時代のラテン語】
宣教師達は南蛮寺(教会堂)、コレジオ(宣教師養成学校、Colledgeはここから来ています)、セミナリオ(神学校、Seminaryはここから来ています)などを作って、布教に務めていますが、これらではラテン語の講義も行われ、讃美歌が歌われていましたので、当時の日本人の中にはラテン語を耳にしたり、学んだりしていた者もいたのです。実際、信長や秀吉と会見し、『日本史』を著したことで知られるルイス=フロイスなどは、生徒のラテン語の習得が速いと驚いています。


3、近世

●徳川家康…北条氏滅亡後の関東で約250万石の領地を支配する大名となった家康は、「天下分け目の戦い」と言われる関ヶ原の戦い(東軍:家康・福島正則・黒田長政らVS西軍:石田三成・毛利輝元ら)に勝ち、征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府を開きます。家康は戦国大名の中でも、戦国最強とされる騎馬軍団を率いて領国経営にも優れていた武田信玄と200戦以上の合戦を戦い抜いた戦国時代屈指の謀将毛利元就から多くを学んだようです。その後、大坂の役で豊臣氏を滅ぼし、大名の居城を1つに限る一国一城令や、建武式目・分国法などを元にして金地院崇伝に起草させた武家諸法度を制定して、大名を厳しく統制しました。


【家康のブレーン達】

金地院崇伝 臨済宗の僧で、江戸幕府の外交政策に深く関与し、「黒衣の宰相」と呼ばれました。寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度の3法令を起草したと言われています。
天海僧正 天台宗の僧で、上野の寛永寺や日光東照宮を建設していますが、これは江戸の鬼門(東北方向)を鎮めるためとも言われています。
林羅山 朝鮮朱子学者羌沆に学び、儒教を五山僧の教養から独立させた藤原惺窩の推挙で家康の側近となり、その子孫は代々幕府に仕えて、学問と教育を担うこととなります。
三浦按針 オランダ船リーフデ号の水先案内人、イギリス人ウィリアム=アダムズ。当時のヨーロッパの紛争や、幾何学・数学・航海術などの知識を伝えたとされます。
耶揚子 オランダ船リーフデ号の航海士、オランダ人ヤン=ヨーステン。東京の「八重洲」の地名の由来となったとされます。


【幕藩体制】
幕藩体制 強力な領主権を持つ将軍(幕府)と大名(藩)が土地と人民を統治する支配体制。
大名 将軍と主従関係を結んだ1万石以上の武士。戦時には軍役が賦課され、平時には普請役(江戸城などの修築や河川の工事など)を負担。
親藩 御三家(尾張・紀伊・水戸)など徳川一門の大名。徳川宗家に将軍の跡継ぎがいないと、御三家から跡継ぎを出す。
譜代 初めから徳川氏の家臣だった大名。要所に配置。
外様 関ヶ原の戦い前後に徳川氏に従った大名。有力な外様はなるべく遠隔地に配置。
旗本 将軍直属の家臣で1万石未満。将軍に謁見(お目見え)が許されました。
御家人 将軍直属の家臣で1万石未満。将軍に謁見(お目見え)が許されませんでした。
大老 臨時の最高職。
老中 幕府中枢で政務を統轄。若年寄は老中補佐で、旗本を監督。
大目付 大名を監察。目付は旗本を監察。
三奉行 寺社奉行(将軍直属)・町奉行・勘定奉行。
京都所司代 朝廷の統制、西国大名の監視。
地方知行制(領内の有力武士に領地を与え、領民支配を認める)→俸禄制度(藩の直轄領である蔵入地からの年貢を蔵米として支給)


【初期外交と鎖国のプロセス】
1604年 糸割符制度~糸割符仲間が中国産生糸一括購入、ポルトガル商人を排除。松前藩成立~アイヌとの交易独占権→商場知行制。
1609年 己酉約条(対馬藩主宗氏と李氏朝鮮)→釜山に倭館、朝鮮通信使(慶賀使など)。薩摩藩島津家久による琉球王国制服→謝恩使(国王就任)・慶賀使(将軍就任)。
1610年 京都の商人田中勝介をスペイン領メキシコに派遣。
1612年 直轄領に禁教令→翌年に全国化。
1613年 慶長遣欧使節~仙台藩主伊達政宗が支倉常長をスペイン派遣。
1614年 高山右近ら3000人余りをマニラとマカオに追放。
1616年 ヨーロッパ船(中国船以外の船)の寄港地を平戸と長崎に制限。
1624年 スペイン船の来航禁止。
1631年 奉書船(朱印船:朱印状+老中奉書)制度開始。
1633年 奉書船以外の日本船の海外渡航禁止。
1635年 日本人の海外渡航及び帰国を全面禁止→日本町(東南アジア、朱印船の寄港地。山田長政らが活躍)の衰退。
1637年 島原の乱(天草四郎時貞)→絵踏、寺請制度、宗門改め。
1639年 ポルトガル船の来航禁止。
1641年 オランダ商館を出島に移す→鎖国(ドイツ人医師ケンペル『日本誌』→オランダ通詞志筑忠雄「鎖国論」)
1669年 シャクシャインの戦い→アイヌは全面的に松前藩に服従。


【「通信の国」と「通商の国」】
通信の国…国と国との国交関係。李氏朝鮮(朝鮮通信使)、琉球(謝恩使~琉球国王の代替わり、慶賀使~徳川将軍の代替わり)。
通商の国…商人たちが来日するのみで、国と国との外交関係は存在しなかった。オランダ(江戸参府~オランダ商館長が毎年のように江戸に行って将軍に拝謁、オランダ風説書~オランダ商館長が提出)、中国(唐人屋敷~中国人の住居)。

●徳川吉宗…紀伊藩主から第8代江戸幕府将軍に就任。家康時代への復古を掲げて、幕政改革に取り組み、29年間にわたる享保の改革を実行して、「中興の祖」とされます。多くの有能な人材を登用し、優れた儒学者を侍講に用いて、財政再建、江戸の都市政策、法令・判例の集大成を進めるなどして、多くの成果を上げました。5代将軍綱吉は生類憐みの令から「犬公方」と呼ばれましたが、大名から臨時に米を上納させたり、年貢率を固定して収入を安定化させたり、商人資本の力で新田開発を進めて米の増産をするなど、米を重視した吉宗は「米公方」と呼ばれています。吉宗はさらに、米価の上昇によって武家の財政を安定させようとし、世界初の先物取引市場である大坂の堂島米市場を公認しています。また、実学を重視して漢訳洋書の輸入制限を緩め、蘭学興隆の基礎を築いたり、発達した商品経済を把握しようと商人や職人の仲間を広く公認するなど、先見の明も多分にあったようです。


【吉宗のブレーン・スタッフ達】
大岡忠相 江戸町奉行として活躍し、「大岡裁き」として「三方一両損」などのエピソードで知られます。時代劇でも有名ですね。
荻生徂徠 伊藤仁斎の古義学の方法論をさらに推し進め、古文辞学を創始しました。こうして徂徠は、孔子・孟子のさらに前の「先王の道」に至り、それは「礼学刑政としての道」であるとして、経世論に道を開きました。
室鳩巣 新井白石と同じく木下順庵門下の木門十哲の1人で、荻生徂徠と共に吉宗の侍講に招かれます。
青木昆陽 飢饉対策としてさつまいも(甘藷)を普及させ、「甘藷先生」と呼ばれました。また、吉宗の命令で蘭語(オランダ語)を学び、キリスト教を除く、実学的な蘭学洋書の輸入が認められたこともあって、蘭学興隆の道を開きます。


【江戸時代初期~中期の改革】
徳川綱吉(犬公方) 新井白石 徳川吉宗(米公方)
元禄時代(文治主義) 正徳の治(側用人政治) 享保の改革(家康時代への復古)
武家諸法度(天和令)~文武忠孝(武断政治→文治主義)。 閑院宮家創設~将軍家と天皇家との結びつき強化。 足高の制~人材登用において、役職の基準に満たない石高を在職期間中補う制度。
明暦の大火(振袖火事)→幕府財政の破綻→勘定吟味役(勘定奉行)荻原重秀による貨幣改鋳(慶長小判→元禄小判)→インフレ(物価騰貴)。 正徳金銀~貨幣価値が下がった元禄金銀改鋳→慶長金銀と同品位に。
海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)~長崎貿易制限(金銀流出防止)。
上げ米~石高1万石につき100石上納。
定免法~年貢率(免)の固定化(⇔検見法)→年貢増収・安定化。享保金銀(正徳金銀と同品位)→元文金銀(貨幣の品位を下げる)~物価安定化。
生類憐みの令~仏教に帰依→「犬公方」。
服忌令(服喪・忌引の日数を定める)~神道の影響。
湯島聖堂(林家の家塾→聖堂学問所)、林鳳岡(信篤)→大学頭~儒教重視。
朝鮮通信使待遇簡素化~「日本国大君殿下」→「日本国王」。
宣教師シドッチ→『采覧異言』、『西洋紀聞』。
小石川養生所~貧民を対象とする医療施設。
相対済し令~金銭貸借訴訟(金公事)は当事者間解決。
公事方御定書~幕府法令や裁判の判例を集大成して、刑罰の客観的基準を定めた。
目安箱~庶民の意見を聞く。


【各藩の名君・名臣】
江戸時代初期 池田光政(岡山藩主)~郷学閑谷学校、熊沢蕃山(陽明学)→藩校花畠教場。
保科正之(会津藩主)~山崎闇斎(崎門学派~日本的朱子学、垂加神道~朱子学的神道)
徳川光圀(水戸藩主)~彰考館(亡命明人朱舜水)→『大日本史』編纂
前田綱紀(加賀藩主)~木下順庵(朱子学~木門十哲に新井白石・室鳩巣・雨森芳洲・三宅観瀾ら)
江戸時代中期 細川重賢(熊本藩主)~藩校時習館。
上杉治憲(鷹山、米沢藩主)~藩校興譲館。「なせばなる なさねばならぬ 何事も ならぬは人の なさぬなりけり」。ケネディ元大統領が最も尊敬する日本人政治家として名前を挙げたことで有名です。
佐竹義和(秋田藩主)~藩校明徳館。
江戸時代後期 調所広郷(薩摩・鹿児島藩)~借財棚上げ、黒砂糖専売、琉球貿易。
島津斉彬(薩摩・鹿児島藩)~反射炉・造船所・ガラス製造所建設、安政の改革参加。
村田清風(長州・萩藩)~借財整理、紙・蠟専売、越荷方(越荷の委託販売)。
鍋島直正(閑叟、肥前・佐賀藩)~大砲製造所→洋式軍事工業の導入。
徳川斉昭(水戸藩)~藩校弘道館、安政の改革に参加。
伊達宗城(宇和島藩)~安政の改革に参加。
松平慶永(春嶽、越前・福井藩)~安政の改革に参加、文久の改革で政事総裁職に。
江川太郎左衛門(坦庵、幕府)~反射炉(伊豆韮山)。


●田沼意次・松平定信・水野忠邦…江戸時代を代表する3大老中です。田沼意次は商品経済の発展に対応した現実的で合理的な政策が試みられましたが、浅間山の噴火や関東の大洪水などの災害と天明の大飢饉が重なって、失脚していきます。代わって、白河藩主として天明の飢饉を乗り切り、藩政を立て直したことから名君とされた松平定信が、祖父に当たる吉宗の享保の改革を理想として寛政の改革に着手しますが、社会保障政策では見るべき成果があったものの、厳しい統制や倹約令は民衆の反発を招きます。最後は尊号一件で幕府と朝廷の対立を招いて、失脚します。やがて、天保の飢饉やアヘン戦争(1840~42年)といった内憂外患が生じ、幕藩体制の危機の中で水野忠邦が天保の改革を推進し、享保・寛政の改革への復古を目指しますが、大名から百姓・町人までの抵抗を受けて挫折し、幕府権力の衰えを如実に示す結果となってしまいました。


【寛永文化・元禄文化・化政文化】
江戸時代初期 池田光政(岡山藩主)~郷学閑谷学校、熊沢蕃山(陽明学)→藩校花畠教場。
保科正之(会津藩主)~山崎闇斎(崎門学派~日本的朱子学、垂加神道~朱子学的神道)
徳川光圀(水戸藩主)~彰考館(亡命明人朱舜水)→『大日本史』編纂
前田綱紀(加賀藩主)~木下順庵(朱子学~木門十哲に新井白石・室鳩巣・雨森芳洲・三宅観瀾ら)
江戸時代中期 細川重賢(熊本藩主)~藩校時習館。
上杉治憲(鷹山、米沢藩主)~藩校興譲館。「なせばなる なさねばならぬ 何事も ならぬは人の なさぬなりけり」。ケネディ元大統領が最も尊敬する日本人政治家として名前を挙げたことで有名です。
佐竹義和(秋田藩主)~藩校明徳館。
江戸時代後期 調所広郷(薩摩・鹿児島藩)~借財棚上げ、黒砂糖専売、琉球貿易。
島津斉彬(薩摩・鹿児島藩)~反射炉・造船所・ガラス製造所建設、安政の改革参加。
村田清風(長州・萩藩)~借財整理、紙・蠟専売、越荷方(越荷の委託販売)。
鍋島直正(閑叟、肥前・佐賀藩)~大砲製造所→洋式軍事工業の導入。
徳川斉昭(水戸藩)~藩校弘道館、安政の改革に参加。
伊達宗城(宇和島藩)~安政の改革に参加。
松平慶永(春嶽、越前・福井藩)~安政の改革に参加、文久の改革で政事総裁職に。
江川太郎左衛門(坦庵、幕府)~反射炉(伊豆韮山)。


【江戸時代の思想】
朱子学 上下定分の利、大義名分論。藤原惺窩・林羅山、山崎闇斎(南学・垂加神道・崎門学派→尊王論)
陽明学 知行合一。中江藤樹(「近江聖人」『翁問答』)、熊沢蕃山(『大学或問』)、佐久間象山(「東洋道徳、西洋芸術」=和魂洋才)、吉田松陰(松下村塾)。
古学 孔子・孟子の原点に帰る。山鹿素行(『聖教要録』、『中朝事実』)、伊藤仁斎(古義学)、荻生徂徠(古文辞学、「先王の道」、『政談』、経世論)、
実学 貝原益軒(本草学)
国学 日本の原点に帰る。荷田春満、賀茂真淵、本居宣長(『古事記伝』)、平田篤胤(復古神道)、塙保己一(和学講談所、『群書類従』)。
洋学 前野良沢・杉田玄白(『解体新書』)、平賀源内(エレキテル、西洋画法)、司馬江漢(銅版画)、シーボルト(鳴滝塾)、緒方洪庵(適塾)。
経世論 太宰春台(『経済録』)、安藤昌益(『自然真営道』、「万人直耕の世」)、海保青陵(『稽古談』、商工業による藩財政再建)、本多利明(『西域物語』、『経世秘策』、西洋諸国との交易による富国策)、佐藤信淵(『経済要録』、産業国営化と貿易による振興策)。
尊王論 水戸学(『大日本史』編纂事業、藤田幽谷、藤田東湖、会沢安)、竹内式部(京都、宝暦事件)、山県大弐(江戸、明和事件)。


【適塾三傑と村塾四天王】
●適塾三傑
橋本佐内 越前藩主松平慶永(春嶽)のブレーン。
福沢諭吉 幕末から明治にかけて3度も欧米に派遣された慶應義塾の創始者。
大村益次郎 戊辰戦争を勝利に導き、近代日本軍創設の基となった長州藩の軍事専門家。


●村塾四天王
高杉晋作 奇兵隊創設者。「識の高杉、才の久坂」と呼ばれ、この2人は「松下村塾の双璧」とされます。
久坂玄瑞 尊王攘夷・討幕の全国の志士達の総元締的存在でした。松陰は玄瑞を「長州第一の俊才」と称しました。
吉田稔麿 同門で明治の元勲となった品川弥二郎は「稔麿が生きていたら、総理大臣になっていただろう」と述べています。
入江九一 松陰からは「久坂君達は優秀だが度胸がない。しかし、君だけは日本国のために死ねる男児である」と評価されています。


ある時、吉田稔麿が一枚の絵を描き、同門の後輩山県有朋(後に陸軍創設、総理大臣、元老)に見せたことがありました。そこには坊主と暴れ牛と木刀と棒切れの4つが描かれていました。吉田によれば、「坊主は久坂玄瑞で、廟堂にいれば立派な政治家である。」「暴れ牛は高杉晋作で、制御しなくては収拾がつかない。」「木刀が一本は入江九一で、才はあるが、まだ本物ではない。」「隅っこに転がっている小さい木の棒がお前(山県有朋)だ。」とのことでした。維新三傑に続く維新第二世代として、伊藤博文らと共に近代日本建設の立役者となった山県有朋も、松下村塾にあってはただの棒切れだったということです。ちなみに伊藤も松陰から、「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」「俊輔(博文)、周旋(政治)の才あり」と、学問よりも政治に向いていることを見抜かれていたようです。


●徳川慶喜…前水戸藩主徳川斉昭の子で、その賢明さゆえに越前藩主松平慶永(春嶽)・薩摩藩主島津斉彬らの支持を得て、第14代将軍に推されましたが、紀伊藩主徳川慶福(第14代将軍徳川家茂)を推す南紀派の指導者である彦根藩主井伊直弼に押し切られ、安政の大獄では謹慎を命じられています。その後、文久の改革では将軍後見職に任命され、家茂死後に第15代将軍となりました。イギリス公使パークスが雄藩連合政権実現に肩入れするようになったのに対し、フランス公使ロッシュは幕府支持だったので、フランスの財政的・軍事的援助の下で幕政の立て直しに努めました。その後、前土佐藩主山内豊信(容堂)の建言を入れて大政奉還をしますが、その本意は朝廷の下に徳川主導の諸藩連合政権樹立という構想でした。結果として、岩倉具視らと組んだ薩長両藩が討幕の密勅を手に入れ、クーデタを起こして王政復古の大号令を出し、260年以上に及ぶ江戸幕府の歴史は終わりを告げることになります。


【幕末の海外留学】
幕府は開国後まもなく蕃書調所(→洋書調所→開成所→明治期:開成学校→東京大学)を設けて、洋学の教授と外交文書の翻訳などに当たらせる一方、海外に留学生を派遣して、欧米諸国の政治・法制・経済を学ばせています。また、開明政策に転じた薩摩・長州などの諸藩も、海外に留学生を派遣しています。
西周 洋書調所教官→オランダ留学→明六社~啓蒙思想。
津田真道 洋書調所教官→オランダ留学→明六社~啓蒙思想。
福沢諭吉 幕府使節に従って、アメリカ・ヨーロッパ訪問。→明六社~啓蒙思想
伊藤博文 長州藩→イギリス留学。
井上馨 長州藩→イギリス留学。
森有礼 薩摩藩→イギリス留学→明六社~啓蒙思想。