国語力アップ講座

漢文

 「漢文」は東アジア世界におけるラテン語のような存在で、長らく文化人・知識人達の「国際標準語」であり続けました。実際、昔の教養人達はたいてい「漢詩」をそらんじており、それが「教養」のバロメーターでもありました。現代日本語においても高度な内容はたいてい「漢語」で表現され、いわゆる「四字熟語」は典型的な「漢語」でしょう。また、日本語を限りなく豊かにする「ことわざ」が「古文」由来であることが多いのに対し、「故事成語」は「漢文」由来であることが多いと言えるでしょう。
 日本語には漢字・カタカナ・ひらがなの3種類の文字体系があります。英語やドイツ語、フランス語はアルファベット1種類のみですし、韓国語でもハングルと漢字の2種類です。漢字は日本文化に豊かな内容をもたらした中国文化そのものでしたし、明治時代になって欧米文化を取り入れる際にはカタカナが絶大な働きをしました。日本人は何気なくこの3種類を使い分け、表現し分けていますが、外国人からすればこれは大変高度なことなのです。
 象形文字から出発し、表意文字の特徴を残しながら表音文字化した漢字を中心とする東アジア諸言語は典型的な「書字言語」であり、「見る言語」「見る文化」であるのに対し、アルファベットという抽象化した表音文字をベースとするヨーロッパ諸言語は「音声言語」であって、「聞く言語」「聞く文化」であるという比較がなされています。やはり、「言語」を知るということは「文化」を知るということと同義なのですね。


①孔子
 「仁」と「礼」を中心とする「儒教」の祖。その言行録である『論語』は、東アジア世界におけるバイブル的存在と言っても過言ではないでしょう。

「子曰(い)はく、学んで時に之(これ)を習ふ、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有り、遠方より来たる、亦た楽しからずや。」(「学而〔がくじ〕編」)

「先生が言われるには、学んだことをいつも繰り返し復習する(、そうすると理解が深まり、自分の身につくようになる)、これはまあ何と嬉しいことではないか。(このように勉学に励んでいると、)元の学友達が遠くからやって来て、学問についてあれこれ意見を交わし合う、これはまあ何と楽しいことではないか。」


「子曰(い)はく、吾(われ)十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず。」(「為政〔いせい〕編」)

「先生が言われるには、私は15歳の時、学問修養に志を立てた。30歳になると学問の思想が確立した。40歳の時に迷うことがなくなった。50歳にして天から与えられた使命を知った。60歳になって人の言葉が素直に聞けるようになった。70歳になって自分の思うようにふるまっても道に外れることがなくなった。」(ここから15歳を「志学」、30歳を「而立〔じりつ〕」、40歳を「不惑」、50歳を「知命」、60歳を「耳順〔じじゅん〕」と呼ぶようになりました。)


 それでは『論語』由来の「故事成語」をいくつか見てみましょう。

「過ちては則(すなは)ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」(「学而編」)
(過ちを犯したら、ためらわずにすぐに改めよ。)
「温故知新(おんこちしん)」(「為政編」)
(古い事柄や学説などを研究して、そこから新しい知識や現代的意義を見出すこと。)
「義を見てせざるは勇(ゆう)無きなり」(「為政編」)
(人として当然行うべき正義と知りながら、それを実行しないのは勇気が無いからだ。)
「後生(こうせい)畏(おそ)るべし」(子罕〔しかん〕編)
(若い人は努力することでその進歩向上は恐るべきものがある。)


②司馬遷
 中国を代表する歴史家で、帝王の事績を中心とした「本紀」と諸人の伝記である「列伝」からなる、「紀伝体」と呼ばれるスタイルで歴史書『史記』を書き、これが中国正史たる「二十四史」の第一に置かれることになりました。

「葦編三絶(いへんさんぜつ)」(「孔子世家〔こうしせいか〕」)
(孔子が易を愛読し、とじひもが幾度も切れるまで読んだという故事から、書物を繰り返し読むこと。)
「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」(「越世家」)
(呉王夫差〔ふさ〕が薪〔たきぎ〕の上に臥〔ふ〕し、越王勾践〔こうせん〕が苦い胆〔きも〕を嘗〔な〕めて屈辱を忘れまいとした故事から、苦難を忍び、我慢を重ねること。)
「鶏口(けいこう)となるも牛後(ぎゅうご)となるなかれ。」(「蘇秦伝」)
(戦国時代の遊説家蘇秦〔そしん〕が、戦国七雄のうち、強大国秦以外の6カ国の王達に、秦に屈せず交戦すべきだと合従策〔がっしょうさく〕を勧めたという故事から、大きな組織で人の後ろにつくよりも、小さな組織でもその長となる方がよいということ。)
「燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志(こころざし)を知らんや」(「陳渉世家」)
(秦を倒すきっかけになった反乱を起こした陳勝が、自分の大望を理解しないで笑った仲間達に言った言葉で、小人物には大人物の大きな理想や考えは理解できないということ。「燕雀」はツバメ・スズメなどの小さな鳥、「鴻鵠」はオオトリ・クグイなどの大きな鳥のこと。)
「背水の陣」(「淮陰侯伝」)
(漢の劉邦に仕えた名将韓信〔かんしん〕が、わざと前方に山、後方に川のある地形に布陣し、逃げ場のない地形であるため、何倍もの敵勢に対して兵士達は決死の覚悟で戦い、大勝を収めたという故事から、ぎりぎりの状況の中で一か八かの勝負をかけること。)
「四面楚歌」(「項羽本紀」)
(漢の劉邦の攻められていた楚の項羽が、ある夜、砦の四面から祖国の楚の歌を聞いて、楚人も皆漢に寝返ったのかと自らの最期を悟った故事から、味方が全て敵に陥り、孤立無援なこと。敵中で一人ぼっちのこと。)
「桃李(とうり)言(ものい)はざれども下自(おの)ずから蹊(こみち)を成す」(「李将軍伝賛」)
(桃や李〔すもも〕はよい花や実がなるので、人が集まり、下に自然に小道ができる意。徳行ある人は何も言わなくても人を心服させること。)


③孟浩然
 王維と並称される盛唐期の「自然派詩人」です。自然と酒を愛した六朝期の「田園詩人」陶淵明の詩風に近いとされます。その詩「春暁(しゅんぎょう)」は日本人に最も親しまれて来た漢詩の1つです。

「春暁
春眠暁(あかつき)を覚えず
処々(しょしょ)啼鳥(ていちょう)を聞く
夜来(やらい)風雨の声
花落つること多少を知らんや」
(春の明け方
春の眠りは心地よく、いつ夜が明けたか気がつかない。
あちらでもこちらでも鳥のさえずりが聞こえる。
昨夜は雨まじりの風が吹いていた。
花が一体どれくらい散っただろうか。〔さぞかしたくさん花が散っただろう〕)


④王維
 盛唐期の「自然派詩人」にして、仏教にも深く通じていて、「詩仏」と呼ばれました。また、「南画(文人画)の祖」として仰がれる画家でもあり、「詩中に画有り、・・・画中に詩有り」と評されるように、一幅の絵を見るような詩をたくさん詠んでいます。

「鹿柴(ろくさい)
空山(くうざん)人を見ず
但(た)だ人語(じんご)の響くを聞くのみ
返景(へんけい)深林(しんりん)に入り
復(ま)た照らす青苔(せいたい)の上」
(鹿の角の形をした垣
ひっそりとした山に人影もなく、
ただかすかに人の声だけが聞こえる。
斜陽が深い林の中に差し込んで、
またみどりの苔の上を照らし出している。)


⑤李白
 酒と自然を愛した豪放磊落な盛唐期の詩人です。天才肌で才気があふれて空想力に富み、自由奔放なその生涯と詩風から「詩仙」と称されます。

「早(つと)に白帝城(はくていじょう)を発す
朝(あした)に辞す、白帝彩雲の間、
千里の江陵(こうりょう)、一日にして還る。
両岸の猿声、啼(な)いて住(や)まざるに、
軽舟(けいしゅう)已(すで)に過ぐ、万重(ばんちょう)の山。」
(早朝に白帝城を出発する。
朝早く、美しく彩られた雲のたなびく白帝城を後にして、
江陵までの千里の道を舟や矢のように下り、一日で帰り着いた。
両岸の猿のひとしきり鳴く声がまだ耳に残っているうちに、
私を乗せた軽舟が、幾重にも重なり合った山間を滑るように過ぎてしまうほどだった。)

「静夜思(せいやし)
牀前(しょうぜん)、月光を看(み)る。
疑ふらくは是(これ)、地上の霜かと。
頭(かうべ)を挙げて、山月を望み、
頭を低(た)れて、故郷を思ふ。」
(静かな夜の思い
ベッドの前を照らす月の光、
地上に降りた霜かと見まがうほどである。
頭を上げてみれば、山の端に月が見える。
そして頭を垂れて故郷を思う。)


⑥杜甫
 李白と並ぶ、盛唐期の大詩人です。道教的な李白に対して、儒教的な杜甫は「詩聖」と呼ばれ、社会の矛盾や人生の苦悩などを歌う作品が数多くあります。

「春望(しゅんぼう)
国破れて、山河在り。
城(しろ)春にして、草木(そうもく)深し。
時に感じては、花にも涙を濺(そそ)ぎ、
別れを恨んでは、鳥にも心を驚かす。
烽火(ほうか)、三月(さんげつ)に連なり、
家書(かしょ)、万金に抵(あた)る。
白頭(はくとう)掻(か)けば更に短く、
渾(す)べて簪(しん)に勝(た)へざらんと欲す。」
(春の眺め
国の都長安は破壊されてしまったけれど、山や河は変わらずあり、
街には春が来て、草木は深々と茂っている。
このような時世に心を痛め、花を見ても涙が流れ、
家族との別れを惜しんでは、鳥の鳴き声にも何となく不安である。
戦ののろしの火はこの三月になっても続き、
家族からの手紙は万金にも値する。
白髪頭をかけばいっそう薄さが身にこたえ、
もうかんざしも刺せなくなりそうだ。)

「岳陽楼(がくようろう)に登る
昔聞く、洞庭(どうてい)の水。
今上る、岳陽楼。
呉楚(ごそ)、東南に坼(さ)け、
乾坤(けんこん)、日夜浮かぶ。
親朋(しんぽう)、一字無く、
老病、孤舟(こしゅう)有り。
戎馬(じゅうば)、関山(かんざん)の北。
軒(けん)に憑(よ)りて涕泗(ていし)流る。」
(岳陽楼に登る
昔から洞庭湖の雄大さについては聞いていたが、
今日初めて岳陽楼に登ると、まさに聞きしに勝る眺めである。
昔、呉や楚といった大国もこの湖によって東と南に断ち切られ、
天地の全てが日夜、湖中に映り浮かんでいる。
それにひきかえ、我が身は親戚や友人から全く音沙汰もなく、 年を取って病気になり、この身を託せるものはただこの小舟があるのみだ。
故郷を思っても、北方関中の地には戦乱が絶えることなく、
悲しみのあまり、ただ楼上の手すりにもたれて、涙を流すばかりである。)