国語力アップ講座

現代文

現代文とは?

 「現代文」とは明治以降の文章を指します。それ以前の江戸時代までの文章は「古文」と呼ばれています。ですから、「現代文の学習」とは、「近代日本文学の歴史」とその中で問題にされてきた「テーマ」「概念」を知ることと言ってもいいでしょう。
 まずは日本文学の大きな流れをとらえていきましょう。


近代日本文学の歴史

①文明開化~西欧文化の流入により、福澤諭吉、中村正直、中江兆民らが啓蒙思想家として活躍。翻訳文学なども盛んになりました。
②写実主義~勧善懲悪的な文学観から脱却して、人間の感情や物事をありのままに表現することを文学の目的としました。
③擬古典主義~明治初期の「富国強兵」「殖産興業」「文明開化」や「鹿鳴館外交」などの急激な「西欧化」への反動として、「日本回帰」が起きました。
④浪漫主義~西欧思想の影響で、封建思想から解放された自由な精神、近代的自我の目覚めを求め、個人の自由な感情を表現しようとしました。
⑤自然主義~現実から目をそむけずに、これを直視して、人間や社会の暗い面やみにくい面もありのままに表現しようとしました。
⑥高踏派・余裕派~近代的自我の目覚めを描き、歴史小説・史伝に没頭した森鷗外と、東洋的な「則天去私」の境地に到達した夏目漱石の二大文豪が、近代文学を確立します。
⑦耽美派~「自然主義」の現実密着に対して、西欧の世紀末思潮の影響を受けて、虚構の美的世界を追求しました。
⑧白樺派~トルストイらの人道主義の影響を受けて、理想主義的な考えに立っていました。楽天的な人間賛歌が特徴です。
⑨新現実主義~大きな社会変動を背景に、「耽美派」「白樺派」などから見過ごされていた「現実」に改めて目を向けます。
⑩プロレタリア文学と芸術派~ロシア革命の影響を受けて誕生した社会主義文学である「プロレタリア文学」と、既成文学に対抗して革新を目指した「芸術派」が登場します。
⑪戦後文学・現代文学~文学の復興・継承を果たした既成作家が復活すると共に、それぞれの戦争体験を元に新しい手法を持った「戦後派」と呼ばれる作家達が登場します。


【福澤諭吉】~日本西欧化の立役者~
 一万円札の肖像で、誰しも一度は見たことがあると思います。慶應義塾の創設者であり、専修学校(後の専修大学)や商法講習所(後の一橋大学)創設にも尽力し、北里柴三郎のために私財を投じて伝染病研究所を建てたりしています。
 蘭学で頭角を表わすも、江戸に出てからは英学に転じ、幕末にアメリカに二度、ヨーロッパに一度渡っています。当時としては抜きん出た世界的知識と視野を有していた人物でした。晩年の自伝『福翁自伝』(明治30年、1897年)には、こうした若き日の福澤の様子が生き生きと描かれています。
 合理的な実証主義精神に基づいて、学問による個人の独立を説いた『学問のすゝめ』(明治5年、1872年)では、冒頭のジェファソンのアメリカ独立宣言の言葉に始まり、学問・社会・教育を論じていますが、身分制を否定して、学問の有無が貴賎貧富の差になるとして、「人間普通日用に近き実学」の必要性を説いています。こうした実用的学問によって、「身も独立し、家も独立し、天下国家も独立」するというわけです。『学問のすゝめ』は最終的に300万部も売れ、当時3000万人の人口のうち、10人に1人がこれを読んだ計算になります。福澤諭吉は、明治維新後の日本が中国文化・儒教精神を脱却して、西欧文明を積極的に取り入れる流れを作ったとされます。

  「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言へり。・・・されども今広く此人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、其有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。その次第甚だ明らかなり。・・・賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり。」(『学問のすゝめ』)


【上田敏】~象徴詩運動の先駆け的存在~
 帝国大学(東大)英文科在学時代から雑誌『帝国文学』『文学界』などに加わって、詩を創作していた人物です。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が「一万人に一人」と絶賛した英語力を持ち、フランス語・ドイツ語・ギリシア語・ラテン語にも通じていました。19世紀末のボードレールに始まり、ヴェルレーヌ、ランボー、マラルメらを生み出した「象徴詩」を訳詩集『海潮音』(明治38年、1905年)によって紹介し、日本の詩壇に多大な影響を及ぼして、象徴詩運動の先駆的存在となりました。「象徴詩」とは思想や感情を直接表出せず、暗示的に表わすもので、「詩の音楽化」と呼ばれる特徴もありました。

「山のあなたの空遠く
『幸』住むと人のいふ。
嗚、われひとと尋めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
『幸』住むと人のいふ。」
(ブッセ「山のあなた」、上田敏訳)


【坪内逍遥】~「写実主義」による「文学の独立」~
 英文学を学び、日本に「小説」の概念を根付かせようとしたのが坪内逍遥です。彼は『小説神髄』(明治18年、1885年)の中で、勧善懲悪的な文学観から脱却して、政治や啓蒙の手段としてではなく、人間の感情や物事をありのままに表現することを文学の目的とする「写実主義」を唱えていきます。これは外山正一らが『新体詩抄』において、新時代の思想や感情を表現するために伝統的な詩形とは違う新しい詩形、すなわち「新体詩」が必要であるとした理論を小説に及ぼしたものですが、「文学の自立」「文学の独立」とも言うべき動きとなりました。
 この逍遥の影響で、新しい時代の文学を表現するのにふさわしい文体として「言文一致体」で書かれた小説『浮雲』(明治20年、1887年)を発表したのが二葉亭四迷です。心理描写にも優れたこの作品が「日本の近代文学の出発点」とされます。

「明治ノ歌ハ、明治ノ歌ナルベシ、古歌ナルベカラズ、漢詩ナルベカラズ、是レ新体ノ詩ヲ作ル所以ナリ」(『新体詩抄』)


【尾崎紅葉】~女性心理を巧みに描いた「紅葉の写実」~
 江戸末期の戯作文学に学んだ尾崎紅葉が女性心理を巧みに描く「擬古典主義の写実派」として登場し、山田美妙らと日本最初の文学結社「硯友社」を結成して、泉鏡花、田山花袋ら多くの門下生を育てます。代表作『多情多恨』(明治29年、1896年)は「心理的写実文学の最高傑作」と称され、貫一・お宮で知られる『金色夜叉』(明治30年、1897年)は金と愛との葛藤の果てに愛の勝利を描こうとし、明治期最大の人気を博しますが、未完のまま終わっています。


【幸田露伴】~格調高い「露伴の理想」~
 漢語や仏教語を交えた格調高い文語体で代表作『五重塔』(明治24年、1891年)を著わし、職人気質を貫く男の理想像を描いた幸田露伴は「擬古典主義の理想派」とされ、2人が活躍した明治20年代は「紅露時代」(「紅葉の写実、露伴の理想」)と呼ばれています。ちなみに、2人は共に東京府立第一中学(後の日比谷高校)の第一期生でもありました。露伴の次女は優れた随筆で知られる幸田文です。


【正岡子規】~俳句・和歌・文章の革新を進めたマルチ天才~
 新聞『日本』に多くの俳論や俳話を発表し、与謝蕪村を高く評価して、自然をありのままに客観的に詠む「写生」の説を立て、俳句革新運動を展開します。明治30年(1897年)には句誌『ホトトギス』を発刊して多くの新人を育て、俳壇の中心勢力となっていきます。子規はさらに明治31年(1898年)に『歌よみに与ふる書』を発表し、紀貫之を下手な歌人と断じて「古今調」を否定し、「万葉調」を高く評価して、大変な反響を呼んでいます。そして、「根岸短歌会」を開いて、「写生短歌」による短歌革新運動にも乗り出していくのです。子規は「写生文」による文章革新も試みており、『病床六尺』(明治35年、1902年)などの優れた随筆も残しています。
 俳句では「ホトトギス派」は高浜虚子が引き継ぎ、虚子は夏目漱石に『吾輩は猫である』(明治38年、1905年)の執筆を勧めて小説世界に導いたり、伊藤左千夫の『野菊の墓』(明治39年、1906年)を『ホトトギス』に発表させたりしています。「ホトトギス派」の「伝統俳句」は季題・定型の尊重と客観写生・視覚描写を特徴としており、俳句とは四季の移り変わりによって起こる自然界・人間界の現象を詠むものだとする「花鳥諷詠」論によって完成し、近代俳句の主流となります。一方、「日本派」の河東碧梧桐は虚子の伝統重視とは対照的に個性的実感・印象を尊重して、季題・定型に縛られない「新傾向俳句」運動を興し、「自由律俳句」へと至っています。
 和歌では根岸短歌会の歌人をまとめ、歌誌『馬酔木』(明治36年、1903年~)、『アララギ』(明治41年、1908年~)を創刊した伊藤左千夫、長塚節らが「アララギ派」として活躍し、彼らは子規の写生文の影響を受けた『野菊の墓』や『土』(明治43年、1910年)などの小説も残しています。この「アララギ派」から、対象(実相)に自己の内面を観入して対象と自己の一体化した「生」を写すという「実相観入」の説を立て、近代短歌を確立した斎藤茂吉が出てきます。


「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規)
「いくだびも雪の深さを尋ねけり」(正岡子規)
「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」(正岡子規)
「瓶にさす藤の花ふさみじかければたたみの上にとどかざりけり」(正岡子規)
「赤い椿白い椿と落ちにけり」(河東碧梧桐)
「桐一葉日当りながら落ちにけり」(高浜虚子)
「春風や闘志いだきて丘に立つ」(高浜虚子)
「流れ行く大根の葉の早さかな」(高浜虚子)
「分け入っても分け入っても青い山」(種田山頭火)
「ゆっくり歩かう萩がこぼれる」(種田山頭火)
「うしろすがたのしぐれてゆくか」(種田山頭火)
「うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする」(種田山頭火)
「咳をしても一人」(尾崎放哉)」
「墓のうらに廻る」(尾崎放哉)
「入れものが無い両手で受ける」(尾崎放哉)
「降る雪や明治は遠くなりにけり」(中村草田男)
「万緑の中や吾子の歯生え初むる」(中村草田男)
「みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる」(斎藤茂吉)
「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」(斎藤茂吉)


【与謝野晶子】~思いのたけをのべる情熱歌人~
 「新詩社」を作り、雑誌『明星』(明治33年、1900年~)を創刊した与謝野鉄幹に刺激され、自分の実感を短歌の形式で表現しようと思い立ちます。恋愛賛美に立つ、情熱的で奔放な歌をうたった晶子の『みだれ髪』(明治34年、1901年)は、「近代短歌」の道を開く画期的な歌集となり、文壇に衝撃を与えます。思いのたけをありのままに述べる、その手法は当時では類を見ないもので、近代女性像を語る上で欠かせない存在となっています。日露戦争出征中の弟の無事を案ずる反戦的長詩「君死にたまふこと勿れ」でも大論争を巻き起こしました。

「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」(『みだれ髪』)
「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」(『みだれ髪』)
「海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家」(『恋衣』)
「あゝをとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
・・・
君死にたまふことなかれ
すめらみことはたたかひに
おほみずからは出でまさね
かたみにひとの血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ
・・・
暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君忘るるや、思へるや
十月も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ」(「君死にたまふこと勿れ」)


【石川啄木】~「明星派」天才詩人から「生活派」へ~
 盛岡中学在学中に上級生の金田一京助の影響で雑誌『明星』を愛読し、与謝野晶子の『みだれ髪』に感動して、「明星派」詩人として出発し、浪漫詩集『あこがれ』を発表します。その後、小説『雲は天才である』(明治39年、1906年)を経て、浪漫的描写から生活的実感描写へと転じ、実生活の感情を日常語で歌う「自然主義」(生活派短歌)の立場で第一歌集『一握の砂』(明治43年、1910年)を刊行しています。第二歌集『悲しき玩具』(明治45年、1912年)刊行前に若干26歳で病没していますが、「自然主義」の行き詰まりを指摘し、明日の社会を組織的に考察することを主張した先進的な評論『時代閉塞の現状』(明治43年、1910年)が没後に発表されています。啄木の最後を看取ったのは、「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」(『海の声』)で知られる若山牧水です。

「東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる」(『一握の砂』)
「たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩歩まず」(『一握の砂』)
「ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく」(『一握の砂』)
「はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る」(『一握の砂』)
「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」(明治43年、1910年の韓国併合時に詠んだ歌)


【森鷗外】~「高踏派」と呼ばれた「文壇の大御所」~
 福澤諭吉と共に日本最初の近代的啓蒙学術団体「明六社」のメンバーだった啓蒙思想家西周からドイツ語を学び、東京医学校予科(東大医学部)では医学の他に和歌・漢詩文も学んでいます。陸軍軍医となってからドイツ留学し、西欧の近代化した思想や文明に触れ、日本との文明的格差を感じて帰国すると、医学界と文学界の近代化のために意欲的に活動しています。
 翻訳でも多大な評価を受ける一方、評論でも活躍し、さらに留学体験に基づいて、雅文体の甘美な趣の中に哀感が漂う恋愛小説『舞姫』(明治23年、1890年)、『うたかたの記』(明治23年、1890年)、『文づかひ』(明治24年、1891年)の「ドイツ三部作」を発表します。これらは二葉亭四迷の『浮雲』と共に、「日本近代文学の出発点」とされています。
 その後、「自然主義」流行への反発と夏目漱石の活躍に刺激されて、思想小説『青年』(明治43年、1910年。漱石の『三四郎』の影響で書かれた青春小説)や日本文化の主体性を求めた『妄想』(明治44年、1911年)、女性の近代的自我の目覚めを描いた『雁』(明治44年、1911年)などの作品が発表されると共に、自宅で開催した文学サロン「観潮楼歌会」には当時の「歌壇の大御所」である「明星派」の与謝野鉄幹及び石川啄木・北原白秋ら、「アララギ派」の伊藤左千夫及び長塚節・斎藤茂吉ら、「竹栢会」の佐佐木信綱らを集めるなど、「文壇の大御所」的存在だったことが分かります。文学的には「高踏派」と称されます。
 その後は、乃木大将の殉死に強い衝撃を受けて、『阿部一族』(大正2年、1913年)、『山椒大夫』(大正4年、1915年)、『高瀬舟』(大正5年、1916年)などの「歴史小説」に転じ、さらに『渋江抽斎』(大正5年、1916年)では史料を元に克明な考証・解明を進めていく「史伝」という境地を切り開いています。


【夏目漱石】~「則天去私」の境地に到達した文明批評家~
 東京府立第一中学(後の日比谷高校)から漢学塾の二松学舎へ転じ、ここで漢学の教養を豊かに育んだ後、大学予備門(一高の前身)で正岡子規と交友を深め、「漱石」を名乗るようになります。帝大(東大)英文科卒業後は東京高等師範、伊予尋常中学(松山中学、『坊ちゃん』の舞台)、五高(熊本)教師を経て、英文学や文学論の研究のため、3年間のイギリス留学を送ります。ここで日本と西欧の違いを痛感した漱石は極度の神経症に陥りますが、自分の考えを自分の言葉で語るべきだとする「自己本位」の自覚に到達したとされます。やがて、子規の訃報を聞いて帰国した漱石は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の後を受けて帝大で英文学や文学論を講じていますが、高浜虚子の勧めて雑誌『ホトトギス』に『吾輩は猫である』(明治38年、1905年)を発表して好評を博し、作家としての人生をスタートさせるのです。
 漱石は「自然主義」の即物性や無思想性に反発し、西欧文学に裏付けされた高い教養と知性で人生を余裕を持って眺めようとする文学的態度を取り、「余裕派」と称されています。その後、純粋で一本気ゆえに世俗と交わることができない『坊ちゃん』(明治39年、1906年)、世俗を超えた世界を俳諧の「非人情」の境地に求めた『草枕』(明治39年、1906年)を経て、朝日新聞に入社し、前期三部作『三四郎』(明治41年、1908年)、『それから』(明治42年、1909年)、『門』(明治43年、1910年)を書き、近代的自我の深部にある「エゴイズム」の問題に目を向け始めます。また、「修善寺の大患」(明治43年、1910年に伊豆の修善寺で大吐血して危篤に陥ります)の後には各地で講演を重ねていますが、日本文化の外発性を批判して、内発的方向性を主張した『現代日本の開化』(明治44年、1911年)と、自他両者の尊重に上に成り立つ個人主義を説いた『私の個人主義』(大正3年、1914年)は、「講演による文明批評の双璧」と評価されています。そうして「エゴイズム」を追究した後期三部作『彼岸過迄』(明治45年、1912年)、『行人』(明治45年、1912年)、『こころ』(大正3年、1914年)を経て、『道草』(大正4年、1915年)、『明暗』(大正5年、1916年)に至り、東洋的な倫理観によって西欧の近代的知性が内面に抱える「エゴイズム」を克服した「則天去私」(天に則り、私を去る)の境地に至ったとされます。

「吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー鳴いていた事だけは記憶しておる。吾輩はここで始めて人間というものを見た。」(『吾輩は猫である。』)
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい、と囃し立てたからである。」(『坊ちゃん』)
「山路を登りながら、かう考へた。智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」(『明暗』)


【谷崎潤一郎】~女性美を華麗な文体で追求した「耽美派」~
 第2次『新思潮』に『刺青』(明治43年、1910年)を発表し、永井荷風に激賞されて文壇に登場します。漢文調とも西洋調とも違う日本の伝統美を強調し、古典的文体を生かして女性の官能美を追求したことで知られます。国際的評価も高く、ノーベル文学賞候補にもなりました。『痴人の愛』(大正13年、1924年)、『春琴抄』(昭和8年、1933年)、『細雪』(昭和18年、1943年)などの作品があります。


【高村光太郎】~理想主義的な「現代詩の父」~
 最初は『スバル』に耽美的な詩を発表していましたが、後に「白樺派」の影響を受けて、理想主義的・人道主義的な詩を書くようになっています。北原白秋ら詩壇の主流が「文語自由詩」であったのに対し、高村光太郎は「口語自由詩の確立者」として位置付けられ、愛する女性智恵子に対する「絶唱」には胸を打つものがあります。

「道程
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため」(『道程』)

「レモン哀歌
そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう」(『智恵子抄』)


【萩原朔太郎】~「新体詩」を「近代詩」として完成~
 「日本近代詩の完成者」と評されるのが萩原朔太郎です。朔太郎は前橋中学時代から短歌を雑誌『明星』などに投稿し、「新進中の新進」と期待されていました。その後、五高、六高、慶應義塾大学予科と入学、落第、退学を繰り返した後、北原白秋主宰の雑誌『朱欒』に短歌や詩を発表し、そこで室生犀星と出会って生涯の友となっています。そして、大正6年(1917年)には第一詩集『月に吠える』を発表して、森鷗外らに高く評価され、一躍詩壇の寵児となるのです。

「ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや」(室生犀星『抒情小曲集』)

「竹
光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。」(萩原朔太郎『月に吠える』)


【宮沢賢治】~「心象スケッチ」としての詩~
 自然と生活に根ざした豊かな空想力による独自の宇宙観と、深い信仰心に根ざした数々の作品を生み出しました。生誕の2ヶ月前の明治29年(1896年)6月15日に三陸地震津波が故郷岩手を襲い、生後5日目に陸羽地震を経験しています。亡くなった年である昭和8年(1933年)の3月3日にも三陸地震が起きて大災害をもたらしており、その一生は「天災を憂慮した詩人の生涯」であったと言えるかもしれません。詩集『春と修羅』(大正13年、1924年)、童話『注文の多い料理店』(大正13年、1924年)、『グスコーブドリの伝記』(大正7年、1931年)、『銀河鉄道の夜』(昭和8年、1933年)、『風の又三郎』(明治9年、1934年)などがよく知られています。愛する妹トシが24歳で亡くなった時の絶唱「永訣の朝」は今も多くの人の心を打ちます。また、有名な「雨ニモマケズ」の詩は、賢治が死ぬ2年前に書かれ、死後に発見されたものです。

「永訣の朝
きょうのうちに
とおくへいってしまうわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)(あめゆきとってきてください)
うすあかくいっそう陰惨な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜のもようのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまえがたべるあめゆきをとろうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのように
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといういまごろになって
わたくしをいっしょうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまえはわたくしにたのんだのだ
ありがとうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあえぎのあいだから
おまえはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまっている
わたくしはそのうえにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系をたもち
すきとおるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていこう
わたしたちがいっしょにそだってきたあいだ
みなれたちゃわんのこの藍のもようにも
もうきょうおまえはわかれてしまう
(Ora Ora de shitori egumo)(あたしはあたしでひとりいきます)
ほんとうにきょうおまえはわかれてしまう
あああのとざされた病室の
くらいびょうぶやかやのなかに
やさしくあおじろく燃えている
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらぼうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて         (またひとにうまれてくるときは) 
    こんどはこたにわりゃのごとばがりで(こんなにじぶんのことばかりで)
    くるしまなぁよにうまれでくる) (くるしまないようにうまれてきます)おまえがたべるこのふたわんのゆきに わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜卒の天の食に変って
やがてはおまえとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいわいをかけてねがう」(『春と修羅』)

「雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ツテソノ稲の束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ」(「雨ニモマケズ」)


【芥川龍之介】~理知的な芸術性をもった「新現実主義」~
 『鼻』(大正5年、1916年)で夏目漱石の激賞を受けて文壇に登場し、『羅生門』(大正4年、1915年)、『戯作三昧』(大正6年、1917年)、『枯野抄』(大正7年、1918年)、『河童』(昭和2年、1927年)などの作品を発表し、緻密な構成と均整の取れた文体から芸術至上主義的な「新技巧派」とも呼ばれています。鷗外の歴史小説の影響で、その作品の多くは歴史小説のスタイルを採っていますが、史実をたどる本格的な歴小説とは異なり、人間の醜さをするどくえぐるなど、歴史の中の人物や事跡に近代的な解釈を加えて再構築している中に、近代人の「エゴイズム」を追究した漱石の影響が見て取れるでしょう。こうした芥川の手法は、後に中国古典を題材とした中島敦の『山月記』(昭和17年、1942年)、『李陵』(昭和18年、1943年)などにも見ることができます。芥川の作品の根底には深刻な「ニヒリズム」(虚無主義)があり、「ぼんやりした不安」を抱えたまま、芥川は昭和2年(1927年)に自殺しますが、その死は時代の危機を語るものとして深刻な反響を呼びました。芥川の命日の7月24日は「河童忌」と呼ばれます。
 一方、一高で芥川の同級生だった菊池寛は『父帰る』(大正6年、1917年)、『恩讐の彼方に』(大正8年、1919年)などの作品を発表しています。菊池は大正12年(1923年)に雑誌『文芸春秋』を創刊し、友人の名を冠した「芥川賞」「直木賞」を昭和10年(1935年)に創設するなど、後進作家育成に努めたことでも知られ、「文壇の大御所」と呼ばれます。

「あなたのものは大変面白いと思ひます。落着があつて巫山戯てゐなくつて自然其儘の可笑味がおつとり出てゐる所に上品な趣があります。・・・文章が要領を得て能く整つてゐます。敬服しました。あゝいふものを是から二三十並べて御覧なさい。文壇で類のない作家になれます。」(『鼻』を読んだ漱石の芥川への手紙)


【川端康成】~みずみずしい繊細な叙情性を持つ「新感覚派」~
 新しい文学の創造を目指し、横光利一らと大正13年(1924年)に雑誌『文芸時代』を創刊し、『伊豆の踊り子』(大正15年、1926年)、『雪国』(昭和10年、1935年)などの作品を発表して、「新感覚派」と呼ばれました。相次ぐ肉親の死によって形成された虚無感と日本の王朝文学に基づくみずみずしい繊細な叙情性を基調としており、サイデンステッカーという名翻訳者を得て国際的評価も高く、日本人で最初のノーベル文学賞受賞となります。川端自身も「ノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と述べており、賞金の半分を渡しています。受賞記念講演では「美しい日本の私-その序説」を語り、後に川端が芥川賞に推薦し、日本人で2人目のノーベル文学賞受賞者ともなった大江健三郎はこれをふまえて、「あいまいな日本の私」と題した講演を行っています。

「道がつづら折りになるて、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追つて来た。」(『伊豆の踊り子』)
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。」(『雪国』)


【中原中也】~音楽的響きのある倦怠と哀愁の抒情詩~
 昭和8年(1933年)に堀辰雄編集の詩誌『四季』が創刊され、抒情詩の伝統に立ち、ヨーロッパ的な主知的詩精神を踏まえた上で、理性と感性の調和により、音楽性を回復した均整の取れた詩を目指しています。ここに三好達治、萩原朔太郎、中原中也らが参加しています。

「雪
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」(三好達治『測量船』)

「甃のうへ
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ」(三好達治『測量船』)

「汚れちまつた悲しみに・・・
汚れちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れちまった悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れちまつた悲しみは
懈怠のうちに死を夢む

汚れちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる・・・」(中原中也『山羊の歌』)

「一つのメルヘン
秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。
陽といっても、まるで珪石か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。
やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました・・・・・・」(中原中也『在りし日の歌』)


【太宰治】~傷つき易い精神と純粋な「魂の叫び」~
 『走れメロス』(昭和15年、1940年)、『斜陽』(昭和22年、1947年)、『人間失格』(昭和23年、1948年)などを発表して絶大な支持を得ました。芥川を敬愛していた太宰はその自殺に衝撃を受けており、「生れてすみません」という言葉を残す一方、魂の根底では愛と人間性の至純な美しさを希求していたとされます。昭和23年(1948年)に太宰は自殺し、遺体が発見された6月19日は太宰の誕生日でもありましたが、「桜桃忌」と呼ばれています。墓は三鷹の禅林寺にあり、彼が尊敬した鷗外の向かいに建てられています。

  「私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!メロス。・・・
『セリヌンティウス。』メロスは目に涙を浮かべて言った。『私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。』
 セリヌンティウスは全てを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、『メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。』
 メロスは腕に唸りをつけて、セリヌンティウスを殴った。
『ありがとう、友よ。』二人同時に言い、ひしと抱き合い、それからうれし泣きにおいおい声を放って泣いた。」(太宰治『走れメロス』)


文学史・評論の頻出概念

【近代精神】
 ヨーロッパ近代精神はあらゆる学問の母体であり、明治以降の日本もこれを如何に吸収して封建制を打破していくかが常にテーマであったわけです。一般にヨーロッパ近代精神は「ヒューマニズム」「合理主義」「人格主義」の3つの柱からなるとされます。

①ヒューマニズム
 「人文主義」「人本主義」「人道主義」などと訳されますが、「人間性」を尊重して、これを束縛し、抑圧するものから人間の解放を目指す「人間中心主義」が大きな特徴でしょう。これが霊性や信仰といった内面に向えば「宗教改革」となり、現実や生活に向えば「ルネサンス」となるわけです。ここから「近代思想」「近代文化」「近代科学」なども生まれてきました。

②合理主義
 「理性中心主義」とも表現され、人間の「理性」を人生観・世界観の中心に置く考えを指します。非合理的なものに対して反発し、理性に基づく合理的思考を貫こうとします。これは自然科学と直結する考え方ですが、行き過ぎると全てを理性で割り切ろうとする「啓蒙思想」にまで至ります。

③人格主義
 これは「人間中心主義」と「理性中心主義」を統合したものと言えます。「理性的自律」とも言われますが、「理性」に基づいて「自律」した自由な「人格」が目的となり、「個人の尊厳」「個性の尊重」といった考え方がここから出てきます。これが「個人主義」であって、単なる「自己中心主義」である「利己主義」とは区別されます。


【文学の目的・価値】
 坪内逍遥は日本の近代小説のあり方を説いた初の理論書『小説神髄』(明治18年、1885年)で、「文学の目的」を人間の内面追究に置き、その方法としてあるがままを写し出す「写実主義」を唱えて、その理論の実践を試みた『当世書生気質』(明治18年、1885年)を発表しました。
 その後、北村透谷は『人生に相渉るとは何の謂ぞ』(明治26年、1893年)で、文学の「人間の霊性を構築せんとする」意義を強調し、「文学は事業を目的とせざる」ものであるとして、文学の価値は実社会での即物的効用ではなく、精神世界への影響で決まると主張しています。
 ちなみに「世界文学」という観点に立つと、「時代精神」を代表する次の作家達はどうしても落とせないところです。

時代 作家 代表作
古代 ホメロス(ギリシア) 『イーリアス』『オデュッセイア』
中世 ダンテ(イタリア) 『神曲』
近世 シェークスピア(イギリス) 『ハムレット』『オセロ』『マクベス』『リア王』
近代 ゲーテ(ドイツ) 『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』
現代 ドストエフスキー(ロシア) 『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『白痴』『悪霊』
 また「国民文学」「民族文学」という観点に立つと、「民族文化」の根っ子に当たる神話・伝承を含む次の作品群は有名です。

国・民族・地域 代表的作品
インド 『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』
メソポタミア 『ギルガメシュ叙事詩』
イラン 『シャー・ナーメ』
イングランド 『ベオウルフ』
ドイツ 『ニーベルンゲンの歌』
アイスランド 『エッダ』
フィンランド 『カレワラ』
中国 『史記』『淮南子』
韓国 『三国史記』『三国遺事』
日本 『古事記』『日本書紀』


【欧化主義と伝統回帰】
 明治初年度の「富国強兵」「殖産興業」「文明開化」、明治10年代の「鹿鳴館外交」に代表される急激な「欧化主義」への反動が、明治20年代に広く見られるようになります。

人物 業績、媒体
徳富蘇峰 明治20年(1887年)に民友社を作って雑誌『国民之友』を刊行し、政府が条約改正のために進めた欧化政策を「貴族的欧化主義」と批判して、一般国民の生活向上と自由を拡大するための「平民的欧化主義」を説きました。
三宅雪嶺
志賀重昴
明治21年(1888年)に政教社を作って雑誌『日本人』(後に『日本及日本人』)を刊行し、「国粋主義」を主張しました。
陸羯南 明治22年(1889年)に新聞『日本』を刊行し、「国民主義」を唱えます。
高山樗牛 明治30年(1897年)に雑誌『太陽』編集主幹となり、「日本主義」を鼓吹する評論を盛んに発表しています。
 明治23年(1890年)には、儒教的な「忠孝」の精神に基づき、天皇と国家に対する忠誠心を養うことを目的とした「教育勅語」が発布されています。翌年、内村鑑三がキリスト教徒の良心から「教育勅語」に最敬礼せず、第一高等学校を辞職するという「不敬事件」が起こっていますが、内村は「2つのJ」(JesusとJapan)のために生命を捧げるとしており、"I for Japan; Japan for the World; The World for Christ; And All for God"という句を聖書に書き込んでいました。 


【理想主義と現実主義】
 明治20年代には作家の尾崎紅葉・幸田露伴、評論家の坪内逍遥・森鷗外らが一世を風靡して、「紅露逍鷗」と並び称されていますが、鷗外と逍遥との文学上の「理想主義」(浪漫主義)と「現実主義」(写実主義)をめぐる「没理想論争」は有名です。逍遥は個人の人生観・世界観を「理想」とし、「没理想」を評価しましたが、鷗外は普遍的理念・美を「理想」とし、世界は「現実」だけでなく、「理想」に満ちているとし、芸術性を導き出す「理想」を重んじました。  実際、それまでの現実主義的な文学運動が近代文学の「新たな方向性を示す」ものだとしたら、理想主義的な「浪漫主義」は近代文学に「新たなエネルギーを注入する」ものだったと言えそうです。鷗外や北村透谷らが雑誌『文学界』でこの運動を進め、『文学界』は美に憧れ、理想に生きようとする青年達の情熱がぶつかり合う場となりました。

第一期 北村透谷の評論 透谷は『人生に相渉るは何の謂ぞ』『内部生命論』(明治26年、1893年)などの評論で、自然の神秘、恋愛の純潔性、文学の自律性を唱え、浪漫主義への強い渇望を示しています。
第二期 樋口一葉の小説 一葉は雅俗折衷の擬古文体による豊かな叙情性を持った『たけくらべ』『にごりえ』(明治28年、1895年)などを発表し、「明治の女流文学第一人者」と評価されています。鷗外は一葉を「この人にまことの詩人といふ称を惜しまざるなり」と絶賛し、彼女を文壇へ送り出すきっかけを作りました。
第三期 島崎藤村の詩 藤村は近代詩の出発点となった抒情詩を発表し、25歳の時の第一詩集『若菜集』(明治30年、1895年)によって一躍詩壇の頂点に立ちます。和文調で女性的な詩風を持つ藤村に対し、男性的・時事的な第一詩集『天地有情』(明治32年、1899年)を発表して、藤村と並び称せられたのが土井晩翠です。晩翠は『帝国文学』で活躍し、滝廉太郎作曲で知られる「荒城の月」の作詞家としても有名です。


【国家による近代化と個人の自由】
 日本の近代化は「日清戦争」(明治27~28年、1894~95年)と「日露戦争」(明治37~38年、1904~05年)の2つを大きな契機として転換点を迎えていきます。政治的にも日清戦争で「アジア・ナンバーワン」となり、日露戦争で「ヨーロッパ列強の一角」に食い込みます。外交的にも日清戦争前後に「治外法権」(領事裁判権)の問題を解決し、日露戦争前後に「関税自主権」の完全回復を成し遂げて、幕末以来の不平等条約改正問題に決着が着きます。経済的にも日清戦争前後に軽工業を中心として「第一次産業革命」が起こり、日露戦争前後に重工業を中心として「第二次産業革命」が起こって、近代資本主義が本格的に軌道に乗っていくのです。こうした「国家主導の近代化」によって近代日本が誕生していくわけですが、ここから近代国家に当然認められるべき「個人の自由」が存在せず、「国家が全て」「国家があっての自由」という風潮が強められていきます。こうした社会の大きな変化は深刻な矛盾も生み出し、文学も変貌を遂げていくことになります。すなわち、真直ぐに「理想」を追求していこうとする「浪漫主義」に対して、「現実」から目を背けずに、これを直視していこうとする「自然主義」が興ってくるのです。
 西洋の「自然主義」は19世紀後半にフランスを中心として興り、実証精神に立って空想や美化を捨て、現実と人間をあるがままに描く文学態度を唱えました。代表者はバルザックらの「写実主義」を発展させたゾラです。日本の「自然主義」は社会と個人の相克や個人の自我を描いた島崎藤村の『破戒』(明治39年、1906)以降、明治40年代に隆盛となっていきますが、次第に社会的視野を失っていき、作家個人の私生活を告白するような「私小説」と呼ばれるジャンルになっていきます。これに対する反発(「反自然主義」)から森鷗外・夏目漱石らの「高踏派・余裕派」、永井荷風・谷崎潤一郎らの「耽美派」、武者小路実篤・志賀直哉らの「白樺派」が出てきます。
 石川啄木なども『時代閉塞の現状』(明治43年、1910年)において、「自然主義」の行き詰まりを指摘しており、社会主義者である幸徳秋水らが死刑に処せられた大逆事件(明治43年、1910年)の理不尽さへの憤りから、「国家権力」に「時代閉塞」の根源を見出し、その唯一打開の方法として、「国家権力」への「宣戦」と「自然主義を捨て」「『明日』の社会を組織的に考察する」ことを主張しています。


【自我とエゴイズム】
 明治維新以降、徐々に「近代化」「文明化」が進行していく中で、人々は封建社会の束縛を脱して一歩一歩「自由」を手にしていくわけですが、それは同時に「不安」「孤独」ももたらすことになりました。これは束縛から解放された「~からの自由」(消極的自由、liberty)と自らの行きたい所へ行く「~への自由」(積極的自由、freedom)の違いに他なりませんが、いきなり「何をしてもいい」と言われても、「何をしたらいいのか分からない」というのが率直なところでしょう。近代人の自我(「近代的自我」)はこうした「人間は自由の刑に処せられている」(サルトル)といった苦しみを抱えているわけです。かくして、日本の近代文学の流れは「近代的自我の確立の過程」に他ならないということにもなってきます。
 夏目漱石は、こうした容易ならぬ「自由」を手にした「近代的自我」の奥底に潜む「自己中心性」(エゴイズム)の問題に深く苦しんだ人物ですが、『現代日本の開化』(明治44年、1911年)では、西洋の開化が「内発的」であるのに対し、明治の開化は西洋文明を模倣した「外発的」で、「皮相上滑りの開化」であると批判しています。さらに『私の個人主義』(明治47年、1914年)では、自己の個性の発展を望むなら他人の個性をも尊重すべきであるとする「自己本位」の思想を展開し、自他両者の尊重の上に立つ「個人主義」を説きました。そうして、「エゴイズム」の解決に完全な自己否定である「死」を選んだ『こころ』を経て、「生」の状態での「エゴイズム」からの脱却、すなわち何物にもとらわれない自由自在の境地を目指して、『明暗』に着手したのです。


【東洋と西洋の統合】
 「浪漫主義」から出発し、「反自然主義」の立場から近代的自我の目覚めを描き、個人と社会の葛藤の中で自らの置かれた立場を見つめ、これを受け入れることで心の平穏を得る「諦念」(レジグナチオン)という立場に立った後、歴史小説・史伝に没頭した森鷗外(高踏派)と、近代的自我のエゴイズムに苦悩しつつ、東洋的な「則天去私」の境地に到達した夏目漱石(余裕派)の二大文豪は、いずれも留学によって西欧文化に触れ、高い教養を備えた人物で、広い視野と余裕のある態度で対象を見つめ、これを理知的・倫理的に批判していきました。

森鷗外 夏目漱石
ドイツ留学→陸軍軍医、作家 イギリス留学→帝大講師、朝日新聞社→作家
浪漫主義(明治20年代)
・翻訳文学『於母影』『即興詩人』
・ドイツ三部作『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』
反自然主義(明治30年代末)
・余裕派『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』
・前期三部作『三四郎』『門』『それから』
反自然主義(明治40年代)
・高踏派『青年』『雁』
修善寺の大患
・講演『現代日本の開化』『私の個人主義』
歴史分野追求
・歴史小説『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』
・史伝『渋江抽斎』
エゴイズム追求
・後期三部作『彼岸過迄』『行人』『こころ』
・『道草』『明暗』
観潮楼歌会、雑誌『スバル』『三田文学』→耽美派に影響 木曜会、雑誌『ホトトギス』→白樺派・新現実主義(新思潮派)に影響
「諦念」(レジグナチオン) 「自己本位」「則天去私」
 こういった「西洋と東洋の統合」というテーマは思想・評論の分野でも見られます。ドイツ観念論哲学の到達点であるヘーゲル哲学を深く学び、坐禅経験によってこれを克服した西田幾多郎は『善の研究』(明治44年、1911年)を著わし、西洋近代哲学が前提としている「主観」(見る主体)と「客観」(見られる対象、客体)の分離に疑問を持ち、こうした分離が生じる以前の「主客未分」の状態を「唯一の実在」として、これを「純粋経験」と呼んで、独自の思想を展開しています。
 和辻哲郎も『人間の学としての倫理学』(昭和9年、1934年)でヘーゲルの「弁証法」を適用しつつ、西洋近代思想が考えたように人間を単に自由で独立した個人とは見なさず、「世間」と「人」との二重の存在、すなわち「間柄的存在」であると考え、その「弁証法的統一」を目指しました。


【芸術至上主義と人生のための芸術】
 高山樗牛は『美的生活を論ず』(明治34年、1901年)で、人生の目的たる幸福は「本能の満足」にあるとして、「人生本然の要求を満足せしむるもの」を「美的生活」と定義しています。道徳や知識については「相対の価値」に過ぎず、「美的生活」のように「絶対の価値」を有するものではないとして、恋愛は「美的生活」の最も「美はしきもの」の事例であるとしています。
 『惜しみなく愛は奪ふ』(大正6年、1917年)で生涯の思想を集大成した有島武郎に至っては、個人の本能的衝動による一元的な「本能的生活」を説き、そこでは全生命を燃焼させる愛にこそ真に自由な個性を育む創造的生活があると主張しています。そして、「愛」は自己発展のために他を犠牲にする働きであるとして、「愛」は「与へ」るものではなく、「奪ふ」ものであるという立場から、芸術・社会・家族生活などについて論じています。
 また、「自然主義」の現実密着に対して、西欧の世紀末思潮の影響を受けて虚構の美的世界を追究したのが「耽美派」です。小説のみならず、詩歌や絵画、音楽などに幅広く影響を与え、「白樺派」と共に大正期を代表する文学潮流となりました。明治42年(1909年)創刊の『スバル』(北原白秋らが中心。森鷗外・上田敏らの協力)、明治43年(1910年)創刊の『三田文学』(鷗外・敏の推挙で慶應大学教授となった永井荷風が主宰)、第二次『新思潮』(鷗外の知遇を得た「近代演劇の開拓者」小山内薫が第一次を編集。第二次以降は東大系の文芸雑誌。谷崎潤一郎が『刺青』を発表)の3雑誌が母胎となっています。
 そして、芥川龍之介なども実人生よりも「芸術」に重きを置く「芸術至上主義」の立場に立っていました。「芸術至上主義」とは、トルストイの言う「人生のための芸術」ではなく、「芸術のための芸術」といってもよいでしょう。もっとも、芥川龍之介と谷崎潤一郎との間で小説の筋(プロット)をめぐる論争が起こり、『文芸的な、余りに文芸的な』(昭和2年、1927年)で小説の筋に芸術性を求めるのは疑問とする芥川に対して、谷崎は筋の面白さは芸術的価値であり、小説の特権と反論しています。芥川は志賀直哉の「話らしい話のない」心境小説を「あらゆる小説中、最も詩に近い小説である」として、その純粋性を肯定していますが、これは「芸術の自律性」を主張した芥川自身の文学を完全否定するものでありました。


【人道主義と社会主義】
 大正期の雑誌『白樺』(明治43年、1910年~)によって文学活動を行ったのが「白樺派」です。その同人はほとんどが学習院出身で、トルストイらの「人道主義」の影響を受け、理想主義的な考えに立っていました。指導的な立場にあった武者小路実篤の『お目出たき人』(明治44年、1911年)、『友情』(大正8年、1919年)、「小説の神様」と称された志賀直哉の『城の先にて』『和解』(大正6年、1917年)、『暗夜光路』(大正10年、1921年)、内村鑑三の弟子でもあった有島武郎の『惜みなく愛は奪ふ』(大正6年、1917年)、『生れ出づる悩み』(大正7年、1918年)、などの作品が挙げられます。
 評論でも「自然主義」の行き詰まりに対して、理想主義的な風潮が生まれ、西田幾多郎の『善の研究』(明治44年、1911年)、阿部次郎の『三太郎の日記』(大正3年、1914年)、和辻哲郎の『古寺巡礼』(大正8年、1919年)、倉田百三の『出家とその弟子』(大正5年、1916年)、『愛と認識の出発』(大正10年、1921年)などが「白樺派」の運動に大きな影響を及ぼしています。
 一方、「社会主義」は「資本主義」の進展に伴う社会の矛盾に立ち向かおうとするもので、労働問題や公害問題などを背景としており、「社会正義」の実現を動機とするものでした。ですから、片山潜、阿部磯雄、木下尚江ら「キリスト教的人道主義」に立つ社会主義者も多くおり、必ずしも「無神論的唯物論」から出発していたわけではありません。マルクスの『資本論』『共産党宣言』による「共産主義」は「無神論的唯物論」に立つ「社会主義」で、「唯物史観」に基づき、「暴力革命」による資本主義社会の打破を目指していましたので、1917年の「ロシア革命」以降、現実味を帯び始め、戦前の日本の国家権力はこれを非常に怖れて弾圧したわけですが、弾圧された「社会主義者」「プロレタリア文学」が一律に「共産主義者」であったわけではありません。


  【民主主義と民本主義】
 「民主主義」とは「デモクラシー」の訳語で、「国民主権」「人民主権」を表わします。「衆愚政治」に陥る危険性をはらむため、古代ギリシアの時代においては「最悪の政治体制」と考えられていましたが、「近代市民革命」を経て「近代市民社会」が形成されていく中で、「人権」を「国家主権」から擁護する政治体制と考えられるようになってきました。
 これに対して、「民本主義」とは「大正デモクラシー」の理論的指導者である吉野作造の造語で、大日本帝国憲法の基本精神である「天皇主権」は否定せず、「国家の主権の活動の基本的の目標は政治上人民にある」ことを示そうとしています。
 ちなみに、第一次世界大戦(大正3~7年、1914~18年)は「近代」から「現代」へ至る、世界史的な大事件でしたが、日本でもその後に「大正デモクラシー」が花開く一方、関東大震災や恐慌が相次ぎ、大きな社会変動の時を迎えます。こうした時代背景の下に、「耽美派」「白樺派」などから見過ごされて来た「現実」に改めて目を向けたのが「新現実主義」です。この中でも雑誌第三・四次『新思潮』によって立つ芥川龍之介や菊池寛らのグループは、理知の目で人間を観察し、知的な手法で人間の小ささと醜さを描こうとしました。かくして、「現実」は唯一の姿として現われるのではなく、理知の目を通して、「百千の変わった現実相」として作品に結晶されるのです。


【文芸批評と近代批評】  大正末期から昭和初期において、ロシア革命の影響を受けて誕生した社会主義文学である「プロレタリア文学」(小林多喜二『蟹工船』など)は個人主義的な文学を否定しましたが、文学手法の革新を目指した「芸術派」がこれに対抗しつつ、既成文学にも反抗して、大胆な表現改革を試みました。「プロレタリア文学」は弾圧されて「転向文学」となり、「芸術派」は雑誌『文芸時代』を拠点とした「新感覚派」から始まって、「新興芸術派」「新心理主義」と続いていきます。

芸術派 代表作家
新感覚派 横光利一『日輪』(大正12年、1923年)、川端康成『伊豆の踊り子』(大正15年、1926年)、『雪国』(昭和10年、1935年)
新興芸術派 井伏鱒二『山椒魚』(大正12年、1923年)、梶井基次郎『檸檬』(大正14年、1925年)、小林秀雄『様々なる意匠』(昭和4年、1929年)
新心理主義 堀辰雄『聖家族』(昭和5年、1930年)、伊藤整『新心理主義文学』(昭和7年、1932年)
 こうした「プロレタリア文学」と「芸術派」の対立の中で、小林秀雄が「近代批評」を出発させていることが、現代に連なる流れとして注目されます。小林は「評論」を単なる文芸時評とせず、批評を通して自己を語るものとし、現代人の自意識に横たわる不安や混乱を凝視して、「創造的批評」とも言うべきジャンルを作り出します。ここから小林の『様々なる意匠』(昭和4年、1929年)、『無常といふ事』(昭和17年、1942年)、三木清の『人生論ノート』(昭和13年、1938年)、亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』(昭和18年、1943年)などが生まれて来ます。「評論」は現在、「受験国語の主流」といった感がありますが、元々は小林の活動によって一文学として確立された、比較的新しい分野なのです。


【戦争と不条理】
 戦争という「極限状況」の中で、人間の生の根源的矛盾や一個人の力では抗し難い運命的状況が自覚されることとなりました。2度にわたる「世界大戦」は人類が未だかつて経験したことのないものであり、「人類レベルでの原罪認識」と評されます。こうした「不条理」は「近代」を支えてきた「合理主義」の対極に位置するものであり、「人間存在の深淵」としてキェルケゴール以来の「実存主義」が深く注目してきたものでした。
 ナチスのアウシュビッツ強制収容所を経験した精神医学者フランクルなども、「極限状況」の中で人間は「生きる意味を求める存在」であることを見抜き、「実存分析」に基づく『夜と霧』(1956年)を発表して大変な反響を呼んでいます。同書は英語版だけでも900万部を超え、日本語を含む17ヶ国語に翻訳されています。


【罪の文化と恥の文化】
 アメリカ合衆国が戦争に参入するに当たって、戦争に関する研究や助言をするために召集された社会人類学者の1人にルース・ベネディクトがおり、その日本社会分析は1946年に『菊と刀』として出版されています。それによれば、神と我との縦的関係に立つ西洋文化は「罪の文化」であり、「世間」「人様」が善悪の基準となる日本文化は「恥の文化」であると指摘されています。
 一方、同じ敗戦国であるドイツの社会分析はドイツの社会心理学者フロムが『自由からの逃走』(1941年)で行っており、ナチスが登場してきた背景には、自由がもたらす孤独や不安や恐怖を強大な権力に委ねることで安心しようとする心理があったと分析されています。これが「自由からの逃走」「権威主義的パーソナリティー」と呼ばれる概念です。  さらに戦勝国側のアメリカ社会の自己分析も、社会学者リースマンの『孤独な群集』(1950年)によって発表されています。それによれば、古代・中世は人々の行動基準が伝統や習慣に基づいている「伝統指向型」、ルネサンス・宗教改革以降は自己の内的価値や内面化された権威(神や良心)に従って行動する「内部指向型」となっているに対して、現代の大衆は他者、同時代の人々の価値意識に従って行動する「他人指向型」に陥っているとされます。


【生命倫理と生命工学】
 第二次世界大戦後に「ニュールンベルク綱領」(1947年)や「ヘルシンキ宣言」(1964年)などで患者の人権擁護の立場が打ち出され、1960年代後半のアメリカでの公民権運動や消費者運動の影響を受けた医療現場では、1970年代に入って「患者の権利」が強く主張されるようになりました。患者の利益になることを理由に一方的に治療方針を決める「医師の父権主義」(パターナリズム)が批判され、患者が十分な説明を受け、納得した上での同意(「説明と同意」「インフォームド・コンセント」)を必要とする「自己決定権」の考え方が広まってきました。これは「終末期医療」(ターミナル・ケア)から発達してきた「QOL」(「生命・生活の質」「クォリティ・オブ・ライフ」)の考えとも相まって、「生命倫理」(バイオエシックス)という概念にまで高められています。
 さらに、「人間の設計図」とも言われる「ヒトゲノム」が2003年にほぼ完全に近い精度で解読され、その情報を活用した「遺伝子治療」「ゲノム創薬」などの「生命工学」(バイオテクノロジー)のさらなる進展が期待される一方で、「究極のプライバシー」とされる遺伝情報に関して、「知る権利」と「知らないでいる権利」が共に保障されるのかといった問題も起こってきています。


【生と死】
 「生」の分野において、精液だけを注射器で子宮に注入し、体内で受精させる「人工授精」や卵巣から採取した卵子と精子を培養液中で受精させ、受精卵を子宮に戻す「体外受精」などの不妊治療の急速な発展は「生殖革命」と呼ばれるほどの成果を生み出してきました。その一方で、妻以外の女性に出産を依頼する「代理母」や胎児に遺伝性の病気が発症する可能性を調べる「出生前診断」、4つ子や5つ子などを妊娠した場合に母体内で胎児を死亡させる「減数手術」、「生殖ビジネス」など、倫理的な問題が追いついていかない現状があります。
 「死」の分野においても、「生前の意思」(リビング・ウィル)に基づいて、無理な延命治療を施さずに自然死を迎える「尊厳死」の考え方が広まってきたり、治療行為の中止や薬物投与などによって死の苦痛からの解放を目的とする「安楽死」が厳しい条件の下で合法とされるという動きも出てきました。人工呼吸器の開発によってもたらされた「新しい死」である「脳死」をめぐって、1997年に「臓器移植法」が制定されてもいます。
 また、これに関連して、エリザベス・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』(1969年)などの著作を契機に、「死」と「死への過程」の諸問題を学問的に扱う「死生学」(サナトロジ-)が1970年代から飛躍的に進歩を遂げ、「死」に対する多角的考察もなされるようになりました。この中で、自立した死生観の確立を目指した「死への準備教育」(デス・エデュケーション)、末期患者の家族と遺族に対する「悲嘆教育」(グリーフ・エデュケーション)といった観点は注目されています。


【高齢社会とユニバーサル社会】
現代の日本は「高齢化社会」(aging society)から「高齢社会」(aged society)へと突入し、さらに「超高齢社会」へと向かいつつあり、このことは単に医療・福祉のみならず、経済・環境・教育・社会制度そのものに深刻な影響を及ぼしています。「高齢化社会」とは65歳以上の高齢者の全人口に占める比率「高齢化率」が7%を超えた社会(日本は1970年に突入)であり、「高齢社会」とは14%を超えた社会(日本は1994年に突入)のことである。高齢化率が7%から14%に至るまでの年数を比べると、フランスが114年、スウェーデンが82年かかっていますが、日本はわずか24年しかかかっておらず、「世界最速で高齢化が進行している国」となっています。
 また、現実の社会(住宅・道路・駅・公共施設など)は健常者を対象として設計されたものであるため、障害者・高齢者にとっては「バリア」(障害・障壁)となるものが少なくなかったのですが、このバリアを取り除いて、高齢者・障害者にも住みやすい社会を作っていこうとするのが「バリアフリー」です。これは社会全体の意識改革である「心のバリアフリー」から始まるとされますが、その根底にある考えが障害者・高齢者を特別視しないで、一つの個性・特徴の持主としてとらえていく「ノーマライゼーション」の思想で、この「共生」の原理に基づいた社会のことを「ユニバーサル社会」と言います。


【少子化と男女共同参画型社会】
「高齢社会」をもたらした背景には「少子化」があり、そのため「少子高齢社会」と呼ばれることもありますが、こうした状況をもたらした要因の一つに「女性の社会進出」が挙げられます。1人の女性が生涯に産む子供の数の平均を「合計特殊出生率」と言い、人口維持のために必要な合計特殊出生率の水準2.08を「人口置換水準」と言います。20世紀には「多産多死」から「多産少死」へと「人口爆発」が起き、さらに先進国では「少産少死」へと「人口革命」と呼ばれる「人口の大転換」がもたらされるようになったのですが、その後さらに、出生率が人口置換水準以下に下がる「第二の人口転換」と呼ばれる現象が見られるようになったのです。
 「女性の社会進出」に伴う「晩婚化」「未婚化」などのライフスタイルの変化に対しては、国や社会が介入することはできませんが、働く女性が安心して出産・育児ができる環境を早く整えていく必要があり、ここで掲げられたのが「男女共同参画(共参)型社会」という概念です。国・地方自治体のレベルでは育児・介護休業法や子育て支援策の充実、保育園・幼稚園の拡充と弾力的運用などが挙げられ、社会や企業のレベルでは男性の育児休暇の積極的導入や女性の雇用の安定、託児・保育施設の完備など、家庭レベルでは父親の積極的育児参加・家事分担などが必要であるとされています。


【環境倫理と循環調和型社会】
 1972年、スウェーデン首都ストックホルムで、国連主催による初めての環境に関する国際会議「国連人間環境会議」が開催され、スローガンは「かけがえのない地球:Only One Earth」でした。さらに1992年、ブラジルのリオデジャネイロで「地球サミット」(環境と開発に関する国際会議)が開催され、将来の世代に資源と良好な環境が残せるようにという観点から、開発と環境保全を調和させる「持続可能な開発(sustainable development)」が基本理念として打ち出されています。
「環境問題」は従来の社会システムが生み出した構造的問題でもあり、「大量生産・大量消費・大量廃棄」というシステムから、「省エネルギー・適正生産・リサイクル」という「循環調和型社会」に転換していくことが避けられない課題となっています。すなわち、「自然を利用し、支配する」という発想から、「自然と調和し、共存する」という発想の転換が必要で、これは西洋的自然観に東洋的自然観をマッチさせていくことでもあります。


【情報化社会とグローバル社会】
「リテラシー」とは元々、読み書き能力のことですが、この応用で、情報の取捨選択、評価、利用といった能力を「情報リテラシー」と言います。これに対して、インターネットなどの情報機器を利用出来る者とそうでない者との「情報格差」「経済的格差」を「デジタル・ディバイド」と言います。
 さらに人間の諸活動が時間的空間的制約を超えて全地球規模になりつつある現象・感覚を指して、「グローバリゼーション」と言いますが、「情報化社会」の進展はこれを促進しています。また、世界規模の「グローバル」と地域主体の「ローカル」を合わせた「グローカル」という言葉も生み出されています。